「五言草書幅」
愚極礼才
紙本墨書 一幅
91×31
ふくやま書道美術館蔵
宋代に達磨関係の文書をまとめた『少室六門集』に次の文章がある。「吾れ本(も)と茲(こ)の土(ど)に来たり、法を伝えて迷情(めいじょう)を救う。一華五葉(いっけごよう)を開き、結果自然(じねん)に成る」。私は元々インドから中国へやってきた。ただただ仏法を伝えて迷える人々を救ってきたが、ほぅら五枚の花弁が開いた。ほどなく実も成るだろうよ。
二祖慧可への「伝法偈」として単純に読めばそんな内容だろう。花開いたのも慧可と思えるが、なにしろ『少室六門集』の成立は宋代だから、唐代以後の禅の隆盛を知っている。それゆえ「五葉」は隆盛分派した「五家(け)」、つまり中国の文化や芸術の基盤を作った唐代以後の禅で、達磨はそれを予見して「一華開五葉 結果自然成」と言ったと解釈される。なかには五葉は五祖弘忍(ぐにん)で、結果と表現されるのは六祖慧能(えのう)以後の最盛期の禅だと言う人もいる。
しかしここではそんな深読みは不要である。要は、花が開けばおのずと実がなる(=結果。果を結ぶ)、能筆の五山僧、愚極礼才(ぐごくれいさい)禅師が言いたいのはそれだけなのである。
最近の風潮は、まずはとにかく目標(望むべき結果)を定めよと言う。そして目標に向かって努力を惜しむな、とも。そう言えば、いかにも立派に聞こえるが、結果を考えて仕事をすることを「功利主義」と言う。現代の人々は結果だけでなく、そこへ向かう「コスパ」や「タイパ」ばかり気にしているのかもしれない。
この国じたい、近頃は「他国に負けない」ことを目標に据え、ミサイルの購入や弾丸の補強に余念がない。しかしこうした奇妙な目標を認めてしまうと、これまで「平和」を目標にしていた時代には考えられなかった手段が、なぜか合理的だと思えてしまう。合理性という言葉に、我々はからっきし弱いのだ。それゆえ奇妙な目標(結果)へ向かう合理性は、時に人をとんでもない場所に連れ去る。結局、注力すべきは「結果」ではなく、「今」の在り方だけなのである。
おそらく人は、なにも目標を持たずには生きられない。ただ目標を持つならそれは遙かな星と、足許の大地の凸凹に気をつけるだけで充分ではないかと、禅は考える。中間的な目標は人を迷わせ、苦しめる。そんな目標は叶わなくとも、最終的に「あの星」(解脱)に向かえばいい。あとは凸凹で転ばぬよう注意する。そう思っていたほうが、不慮の出来事にも対処しやすいはずである。
今の行為の結果(功徳)を些かも期待せず、その行為じたいから喜びを得てしまうことを、禅では「因果一如」と言う。だから凸凹を見誤らずにしっかり歩み、最終的に向かう星を見失わず、因果一如であるなら傍目を気にすることもないし、その後に起こることは自然に任せればいい。すべては「結果自然に成る」、なんとかなっていくのである。
2023/05/01 墨 2023年5・6月号 282号(芸術新聞社)