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特集 宗教×文学

宗教って何?

 数年前、カトリック教会の神父さんたちに招かれて講演する機会があった。講演の前後に伺った話では、日曜学校に人が集まらなくて困っているという。恰度東日本大震災の二〇一一年頃からスマートフォンが爆発的に普及しはじめたが、時期的にはそれと重なっていた。いわゆる新宗教の集会のような孤独な若者たちの受け皿が、スマホによって安直に代行されはじめたということだろう。
 折しもアメリカの経済紙『The Wall Street Journal』電子版では、「グーグルは神に代わりつつあるのか?」という特集を組んでいた。記事はインターネットそのものが神のような存在になりつつあると結論づけていたが、ここでの神とは答えを授ける存在であり、ネット上の検索機能がそれを代替しているというのである。しかし果たして神とは、答えを与える存在なのだろうか?
 思えば私は、お寺という環境に生まれたせいで、宗教と向き合う時を多く過ごした。高校時代はモルモン教会や天理教の教会に通い、統一教会の合宿にも参加した。大学入学で東京へ出ていくと、最初に行ったのが代々木のモスク。その後は禅寺での坐禅会などに参加しながらも、例えば「エホバの証人」の会員からはギリシャ語訳聖書の個人レッスンも受けていた。つまりはどれかを深く信仰するわけでもなく、さまざまな宗教を見聞きしてその全体としての裾野を見極め、宗教全体の共通項を知りたかったのかもしれない。
 少なくともそれらの体験から学んだことは、宗教とは「信じて待つ」時間を提供はしても、決して答えをくれるとは限らないし、その意味では Google などが代行できるはずもない。ただ、待たずに答えを与えるかに思える検索システムが、宗教の妨げになっているのは確か、ということだろうか。
 日本の神道は神の降臨を「待つ」ために「松」と命名した木で門松を作らせた。そして降臨の妨げを「払い、清める」ことに注力するのだが、その構造は瞑想して神の来臨に備えるキリスト教にも似ているし、チャンティングやサジダ(平伏叩頭礼拝)で瞑想状態を作るイスラム教にも通じている。要は神の降り立つ通路を「私」が妨げており、それを溶かす方法をさまざまに工夫しているのである。
 「私」を「わたくし」と訓むのは、「我(わ)が田(た)に杭(くい→くし)」の転訛だとの説がある。じつに言い得て妙で、「私」の利己的性格をよく表している。それが神の通行を妨げるのも道理で、そんな「私」を「払い清め」、あるいは瞑想によって溶かすのだろう。
 清虚たる通路を通って現れる神仏は、はたしてどこから来るのか、その観点で宗教は大きく分かれる。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は外から来ることを疑わないが、仏教は自己の内部にそれを発見した。浄土真宗における阿弥陀仏はやや外部措定を感じるものの、元々は末期における光体験の外部化であろう。私はその観点から『アミターバ~無量光明』を書いた。親鸞は唐の長安に伝わっていた景教(ネストリウス派キリスト教)を知っていたとする論考もあるが、神より光を上に置く景教との類似は確かに頷ける。
 神は外から来訪し、仏は内部からほどけ出る。とすればそれは、人間の性を悪と見るか善と見るかにも連動する。外から善なる神が来るとすれば、人間は本来悪と考えるのが妥当だし、内部から仏が現れるとすれば当然人間の性は善ということになる。仏教の性善説を定立したのが『大乗起信論』、またアブラハムの宗教では「原罪」の考え方が性悪説の根拠と言えるだろう。蛇の誘惑に負け、禁じられた知惠の木の実まで狙う人間だからこそ、厳格な戒律で縛らなくてはならないのである。
 戒律は、むろん仏教にもある。ただそれは自発的な努力目標と言ってよく、処罰は伴わない(最悪でも教団追放)。詮ずれば深い禅定(三昧)に向かうエネルギーを絞り込むために戒律があると思えばいいだろう。それゆえ日本仏教では、インド以来の坐禅の他に念仏やお題目という新たな禅定法を考案し、同時に戒律は最澄の「大乗圓頓戒」の如く簡略化していく。そしてここでも浄土真宗は一向(ひたむき)に念仏申せば戒は不要として「無戒」という独特の立場をとっている。
 あらゆる宗教が禅定(三昧、サマディ)を重視したのは確かだが、それは言葉のない世界であるため、方向性が定まらないという危険性を孕んでいる。たとえば戦時中に特攻隊に「無我」を説き、またオウム真理教が五体投地などによる恍惚の中で救済と詐った「ポア」を実行させたのも、無指向性の三昧の恐ろしさと言えるだろう。本来仏陀の教えには瞑想の方向性として「慈(マイトリー=友愛)・悲(カルナー=同悲)・喜(ムディター=同慶)・捨(ウペークシャー=平静」があり、カトリックでは『聖書』の章句について meditateする。しかし日本ではいつしか「○○三昧」と言うように、無我夢中に行なえば何でも肯定されるような雰囲気が醸成されてしまった。鈴木大拙翁も指摘するように、瞑想には思想による方向性が欠かせないのである。
 多くの宗教を俯瞰すると、やはりそこには世間知とは別な智慧を誘発する仕組みがあるように思える。禅定や三昧、あるいはトランス状態と呼んでもいいが、それは誰にでもかつてはありながら、成長と共に消失しかけている能力である。折口信夫の『古代研究』における「古代」も、単なる年代区分ではなく万物の「根源」と捉えるべき概念だろう。
 経験的に言えるのは、およそ三歳までの子供には、我々大人にはけっして見えない存在が見えたりする。夥しい電磁波が行き交うこの世界のこと、アンテナさえあれば何かが見えるというのも頷けるが、不思議なことに彼らは四歳以降必ずその能力を失っていく。しかしあらゆる宗教的な「行」は脳内に退嬰的な変化をもたらす。お経や念仏、坐禅などにより、我々の脳波はほどなくβ波(13Hz~) からα波(8~12Hz)に変化するが、α波とはいわば小学生の脳波、更に深い禅定が示すθ波(4~7Hz)は、幼稚園児の脳波なのだ。つまり我々は、さまざまな行による苦と恍惚のなかで、なんと子供時代に回帰しているのである。
 そういえば道教の一派では五歳を理想だと言い、その頃の写真を大きくして部屋に貼ることを薦める。私の勝手な推測ではあるが、その年頃にはまだ幼児の流動性知能(=直観力)が残り、一方で初歩的な論理もある程度使い始める。ニューロンの鞘が完成し、電流が一方通行になることで人は論理や計算能力を使えるようになるらしいが、五歳の脳はおそらくその双方に跨がっているのだ。
 人間の脳における「古代」を、仏教は「阿頼耶識」と呼んだ。「アラヤ」とは「膨大な」とか「蔵」のこと。それは文字どおり無限の倉庫で、あらゆる行動や思考や認識の源でありつつその全ての結果の残り香を保存する蔵でもある。ユングはこれを深層の無意識として「集合的無意識(Collective Unconscious)」と命名したが、一方で日本におけるキリスト教を追求した遠藤周作は「神とは阿頼耶識だ」と言明している。
 自然の扱いをめぐり、東西の宗教は「龍」と「ドラゴン」の位置づけに象徴される違いを見せる。つまり簡単に言えば、龍は仏天の加護を任されるのに対し、ドラゴンはサタンの使い。両者の象徴する「自然」は、東では人に親和的なのに対し、西では敵対しつつ管理すべき相手だ。これが自然観の違いを導くわけだが、同時にそれは人間の内奥、つまり「古代」(=nature)を扱う手つきの違いにも反映する。日本にも「荒(あら)魂(みたま)」と「和(にぎ)魂(みたま)」の区別はあるが、これが馴染むことによる様相の変化でもあり得るのに対し、西欧の神はギリシャ時代の混沌を捨て、ローマ以後はすました「善なる神」として秩序の中心に鎮座してしまった。善悪の判断ほど人間的なものはないはずだが、これを神自身がするというのである。「三位一体」説をユングは批判し、神と神の子そして精霊では、悪魔が足りないと言ったが、それは人間の内奥への深い洞察から来た主張である。
 私自身は長年僧侶として生活しながら、時に小説を書いて内奥への旅をしている。坐禅や読経でもむろん「古代」に触れることは可能だが、井筒俊彦氏が「言語阿頼耶識」と呼ぶように、やはり深奥でも言語への認識は根強く残っている。その刺激を契機に、やがて書き進むうちに「私」を超えた何者かが書いているような感覚が訪れる、その愉悦から逃れられず、書き続けているのである。それは私自身が何者かを「待つ」依り代になる作業と言ってもいいだろう。
 外側から神や悪魔が降り立つのかそれとも阿頼耶識から輪廻の主体である識が滲み出るのか、それは知らない。ただそこには普段の「私」がおらず、いたとしてもそれはぼうっとした通路のようなものだ。私にとって宗教とは、今のところその通路のようなものだろうか。「まれびと」が救済に来るとは限らないが、私はその通路を準備しつつそこに現れる何かをいつも待っているのである。
 

2023/05/31 季刊文科92号

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