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天真を養う 第16回

無常と循環

仙厓 「滝図自画賛」
紙本墨画 一幅
136.2×30.2
東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/


 「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と『方丈記』は語りだす。いわゆる仏教の説く「諸行無常」だが、「無常」は科学的事実でもあり、それじたいは嬉しくも悲しくもない。「このままがいい」と思う自己あればこそ、そこに「寂寥」や「悲哀」が宿るのである。
 そうした感情ゆえか、人類は進化の過程でさまざまな「循環」を見出した。おそらく昼夜の訪れや月の満ち欠けがその最初だろう。そして星の巡り、四季の移ろい……。やがて人は、音や響きにも一定の周期があることを発見し、音階ができて音楽も産みだすようになる。たぶん人間は、同じ状態が戻ってくる長短のリズムに喜びを感じたのではないだろうか。
 仏教ではそうして見出された同型性や周期性などの認識を「理」と呼ぶ。個々の事物に「理」を見たお陰で現れた「理事無礙法界」こそ、新人類が初めて見た世界だ。ネアンデルタール人が我々より容積の大きい脳を持ちながら言葉を持たず、音楽も持てなかったのは、彼らが「理」を見ず、ただ「無常」だけを処理していたせいだろう。言葉も音楽も、「理」によって初めて成立するからである。
 仙厓の「瀧図自画賛」は図らずもこの「無常」と「循環」とを想わせる。賛は「散る玉を星とおもひぬ 白雲の中より瀧のながれ出(いず)れば」である。「養老水を以て画出(かきいだ)す」との添え書きもある。
 瀧の飛瀑はまるで白雲のように煙(けぶ)り、無数の水滴は星かと思った、というのである。これだけ読めば無常ゆえの涼気の世界だが、描いた墨は仙厓の故郷ちかくの養老の滝の水。どこでどうやって手に入れたのかは知らないが、美濃生まれで美濃を離れた仙厓には思いも一入(ひとしお)だろう。若き日の得度の師、空印円虚への忝(かたじけな)さはあるものの、美濃ではいろいろあって最後はこんな歌を詠んで離れた。「から傘を広げてみれば天(あま)が下 たとえ降るとも箕(美濃)はたのまじ」。もう二度と美濃は頼るまいとの決別宣言である。
 しかしそうは言っても美濃には両親も眠り、また懐かしい故郷の風景は老いるほど強烈に蘇る。きっと養老の滝だって、孝行息子の話だって、昔親しんだ懐かしい情景に違いない。そう、ここには循環というよりむしろ回帰が感じられる。
 思えば瀧の水も川の水も、流れさって海に入り、蒸発して雲になり、雨となり雪と降って大地を潤すと、また長い年月をかけて地中から湧きだし、循環して川に戻ってくるではないか。
 暑い日にはしかしそんなことは考えず、無常の音に耳を澄ませるのがいい。「理」を思わず、「事」の非連続な具体に身を任せたほうが心が休まるはずである。

2023/07/01 墨 2023年7・8月号 283号(芸術新聞社)

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