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天真を養う 第20回

福の海

一行書「福海無量」
慈雲尊者
江戸時代
紙本墨書 90×31.1
東京国立博物館蔵
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)


 いったいどんな筆で書いたのか、そう思わずにいられない墨痕だが、慈雲尊者の文字は勘所を捉えているからすんなり読める。
 本来は「福聚海無量」という『観音経』の一節だが、「聚(あつ)」まった結果が「海」なのだし「福海無量」で充分通じる。いや、むしろ「聚」を抜くことで、すでに海の如き無量の「福」に包まれている感じさえしてくるから不思議である。『観音経』は得度した真言宗ではなく、後年修行した曹洞宗で唱えるお経。いったい「福」とは何なのかも、禅的に解釈してみよう。
 「福・禄・寿」の場合、禄はお金、寿は長生き、そして福は子宝のことだという。しかし単独で「福」と言われれば、誰しも「幸福」「しあわせ」を想うのではないだろうか。
 「福・禄・寿」はいわば人々が達成したがる目標であるのに対し、単独の「福」はそうではない。目標を達成して感じるのは一時的な満足に過ぎず、人はすぐに目標を上方修正するから常に「途中」の感覚を免れない。しかし尊者の示す「福」は、いつでも「いま、ここ」で感じることができるのだ。
 そのためにはまず他者との比較をやめることが肝腎だ。「福・禄・寿」はあくまで他者と比べて嬉しがり、やがては不満に変化する泡沫(うたかた)の喜びに過ぎない。比較を完全にやめるのは難しいが、それができれば周囲の人々も敵やライバルであることをやめ、仲間に変わる。
 次に重要なのは、過去を忘れることだろうか。特に過去の不幸な経験は現在を著しく限定しやすい。いまコレがうまく行かないのは、過去のアレのせいだ、といった具合である。こうした原因論はある種の決定論であり、人をニヒリズムへと運びがちである。「いま、ここ」はそうした過去の物語の延長線上にあるのではなく、あらゆる可能性を秘めた独立した一点、その連続なのだ。
 そして未来についても、考えてはいけない。誰しも「目標」を掲げ、そこに向かって努力することを是とするが、目標をもった途端、人は無限の可能性を忘れ、目標までの最短距離を効率よく進む道を選んでしまう。つまり網の目の可能性の大部分を、そこでは無意識に切り捨ててしまうのである。
 まとめると、「福」とは他者との比較をやめて周囲を仲間と思いなし、過去も未来も忘れて「いま、ここ」で踊るようなものだ。
 踊るとは、三昧(ざんまい)と言ってもいい。むろんその際は移動もするわけだが、「こんな処まで来たのか」と結果に驚くだけでいい。目の前の「いま、ここ」に次々没頭していけば、さほど妙な場所には着かないはずである。なお、遠くに仰ぐべき星が定めてあれば、福の海は更に広がりと深さを増す。福は百%あなたの変化次第で現れるのである。

2024/03/01 墨 2024年3・4月号 287号(芸術新聞社)

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