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天真を養う 第21回

鶴は飛び、龍は起つ

「木庵性瑫筆一行書」
木庵性瑫 
江戸時代 
慶應義塾蔵(センチュリー赤尾コレクション) 


  長年の禅修行で磨き上げた人を昔から「龍象」と言う。我々には龍や象ほどの大力量が元々具わっているというのである。
 ここでは龍と象ではなく、美しい対句で示される。「鶴は飛ぶ千尺の雪 龍は起つ一潭の水」。これは『圜悟語録』(巻二)に、「作麼生(そもさん)か是れ当処を離れざる底の一句」と問うのに答えている。つまりこの句は、この場を離れるようでいながらそうではない、もっと持続的な力の表現である。いわば途中にありながら家舎を離れない、「もちまえ」発揮の姿と言えるだろう。
 千尺の雪というのは、恐らくヒマラヤ山脈(雪山)を鶴が越えるのを知っていたのだろう。渡り鳥の鶴にとっても、酸素の希薄な六千メートル辺りを渡る最も苛酷な旅路である。
 一方の龍は、冬の間は潭に潜み、潜龍とか伏龍などと呼ばれる。だから冬には天空の雲が少なくなるのだが、春先には安らかな水中での休息を終え、また天に昇る。膨大な水圧を打ち破って昇天し、再び活溌に活動しはじめるのである。
 ヒマラヤに向かって飛び立つ鶴、そして力強く水面を破って飛翔する龍に、磨き上げた「もちまえ」発揮の力と、それを信じる自信が感じられる。
 ところで不思議なことに、圜悟禅師の語録では「龍は起つ一潭の氷」になっている。様々な語録に当たるがむしろ「氷」や「冰」のほうが多いのだ。ただ『隠元禅師語録』巻五には「水」になっており、木庵禅師はこれを受けたのだろう。因みに『大燈国師語録』では「水」も「氷」も使われており、原典は知りつつ「水」にしたい気分を正直に発露したのではないか。氷のほうが突破力は求められるが、水は美しいし一体感がある。あらためて木庵禅師の書を見ると、龍のパワーが最後の「水」まで一連なりに起ち上がるようだ。
 木庵性瑫(もくあんしょうとう)(1611~1684)は福建省泉州に生まれ、十九歳で出家。やがて黄檗山の隠元隆琦(いんげんりゅうき)の許で修行し、隠元が来日した翌年に来朝して宇治万福寺開創を助けた。隠元、即非と共に「黄檗の三筆」と称され、ことに速書きの行草を得意としたらしい。
 ところで龍は、自然の象徴。だから今年の元旦の能登半島地震もまずは受けとめるしかない。しかし龍はまた、自分のなかに潜む渾沌たるエネルギーでもある。被災した福島県を訪れたブータン国王は、子どもたちに語った。「君たちの中には一匹ずつ龍が棲んでいる。龍は苦悩を餌にして大きくなる。どうかみんなの中の龍をもっともっと大きく育ててください」と。
 木庵禅師の気持ちはこれに近いのだろう。一瞬ごとに感じる不安を撥ね返し、何度でも水面から飛びだすつもりで動きつづけるのだ。

2024/05/01 墨 2024年5・6月号 288号(芸術新聞社)

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