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「待つ」ということ

 このところ通信手段が発達し、「待つ」必要がなくなってきた。と言えば、便利で素晴らしい世の中のようだが、逆に言えば人がどんどん待てなくなっている、ということでもある。
 昔の手紙なら返事が届くまで十日ほどは待てた。しかしファクスができると翌日には返事が欲しい。PCのメールだと、やはり翌日だろうか。携帯電話やスマホになってくると待てるのは2時間ほどか。情報の伝わるスピードもSNSの進歩により、アッという間に無数の人々に広まる。その時々の各自の都合など関係なく、情報だけが先走ってしまうのである。
 ところで大徳寺にも妙心寺にも、境内には多くの松の木がある。松の功徳は、常葉の緑、長寿、枯れても別れない二葉などいろいろあるが、何よりその名の由来は神の降臨を「待つ」こと。門松に用いられるのは、水がなくとも平気な顔で「待つ」木だからである。
 もともと「寺」という字は「同じ状態を保つ」意味である。人偏がつけば「侍」で、じっと控えている人だし、行人偏なら「待つ」になる。りっしん偏だと「恃」になり、(自分を)信じつづけることだ。病垂れに入ると「痔」で、これまたすぐには状況の変わらない病気だが、ともかく「寺」とはそう簡単には変わらないことなのだ。
 「待つ」ということは、答えをすぐには期待しない、ということでもあるが、同時に答えがいつかきっと来ると、信じることでもある。本堂に入ってご本尊を拝むと、ああこの方は、こうしてずっと待ちつづける存在なのだといつも思う。そしてその姿勢によって、時に思いもかけない答えを頂くのである。
 掛け軸などを求めるときも、じつは一字二字読めない文字があると私は嬉しい。そのうちきっと読めると信じ、時折眺めていると、どういうわけか読めてしまう瞬間が訪れる。そしてその時大抵は、自分が根本的に変化するような、大きな出逢いを経験するのである。
 最近は、生成AIなどというカンニング王が登場し、それでなくともすぐに検索するクセのついた人々は、AIの答えを「参考にする」などと言いながら結局は何も考えず、正しいかどうかもわからない答えだけをもらってしまう。メガネフレームの小型カメラで試験問題を写して答えを訊けば犯罪だが、皆お咎めなしで似たようなカンニングをしているのである。
 どうして待てないのか。いや、なにゆえそれほど急ぐのだろう。
 なにより問題なのは、現在の日本では十五歳から三十九歳までの死因の第一位が自殺だということである。この傾向は十歳から十四歳、つまり小中学生にも及びつつある。第一位は小児がんだが、それに迫る勢いで自殺が増えているのだ。こんな国は他にない。
 今後、どんな出逢いがあるかもわからず、また自分の適性だってまだはっきりしない年頃に、どうして彼らは「もう駄目だ」と思えるのか。今後生きていても大転換はありえないと、なぜ思い定めてしまうのだろう。
 おそらく「検索」に慣れた彼らは、答えというのは「すぐに」「一つだけ」出ると思い込んでいるのではないだろうか。
 世の中には、答えがない問題だってたくさんある。特に人生上のことは、生きてみなくちゃわからないことも多い。また一度答えを出したとしても、やっぱり違うぞと、思い直してもいい。私にとっては、お釈迦さまの「誕生偈」がまだわからない、常に考え中の問題である。「天上天下唯我独尊」、これをいったいどんな真意で宣言されたのか、私はたぶん一生考えていくだろう。果たして答えが出るのかどうかもわからない。
 この二月、『むすんでひらいて 今求められる仏教の智慧』(集英社)という本を出した。哲学者の悩みに答え、仏教の世界を徘徊するような本だが、タイトルに込めた思いは「待つ」ことに繋がる。つまり、一度思い込んだ(結んだ)思いも「手を拍って」また開き」、何度でも思い直そうという主張である。
 「手を拍つ」行為とは、理詰めで未来を考えることをやめること。合理的推論(シミュレーション)に我々は慣れすぎているけれど、自然は常に予想外なのだ。とにかく未来を予測することをやめ、過去の偏差値なども忘れて、「今」に没頭しようというのである。
 もうお遊戯に没頭できる年頃ではないだろうし、それは歌唱でも運動でも何でもいい。ただ、仏教が歴史的に積み重ねてきた瞑想技術はその際大いに役立つだろう。
 坐禅、観想、読経、念仏など、それらはいずれも脳波をα波やθ波にまで戻してくれる。つまり、小学生や幼稚園の頃のゆったりした脳波である。これが結んでいた思いを「開く」ことではないだろうか。「結んで開いて手を拍って結んで」「また開いて手を拍って」それからその手を、また仕事や勉強に戻せばいい。
 誰かを待たせると思っているから生きるのが辛くなる。いっそ全てを待つ側に廻ってみればいい。待っていることも忘れた頃、それはきっと降りてくる。

2024/07 『紫野』65号(お盆号)(臨済宗大本山大徳寺)

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