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天真を養う 第23回

兎角の杖、亀毛の拂子

一行書 「龜毛拂」「兎角杖」
木庵性瑫 
江戸時代前期
各136.2×37.9
愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)


 一瞬「鬼の角」かと思ったがそうではない。「兎の角」である。「兎角亀毛」という禅語があり、あり得ないことの喩えだ。木庵禅師は更に「杖」を添え、「兎角の杖」としたが、同時に書いたと思えるもう一幅は「亀毛拂」(亀毛の拂子(ほっす))。共にあり得ない奇妙な代物だ。
 日本語の副詞「とかく」はこの兎角に由来し、そこから「とにかく」や「ともかく」も派生した。いずれにも共通するのは、合理的説明はつかない、という点だろう。それぞれ少しずつ意味は違うものの、その点は「ともかく」一緒なのだ。
 『般若心経』は「色即是空」を標榜し、我々の認識する全ては自性をもたず、真の姿ではないと言う。また聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と言い、仏ならぬ我々が生きるのは、縁によって無常に変化する虚仮なる世界だと喝破した。それもその通りで、だからこそ『般若心経』も「空即是色」と反転するのである。
 要は此の世を虚仮で無常で妄想だらけと認めたうえで、而もそれを生きるしかないという覚悟をもつことではないか。
 私の好きな美しい言葉がある。「水月の道場に坐し、空華の萬行を修す」(『宏智広録』)。水月も空華も実体はないのだが、我々が生きるのがその世界である以上、そこで無心に修行するしかないというのだ。たとえ幻であれ、この浮き世を道場と見做し、妄想に満ちた萬行を修しつづけるしかないではないか。
 越後の良寛和尚が漢詩に綴る。「手に兎角の杖を把(と)り、身に空華の衣を著(つ)け、足に亀毛の履(くつ)を曳(ひ)き、口に無聲の詩を吟ず」。全てが幻の所産である。しかしそれでも何物かを杖として寄る辺となし、何某かの服装を身につけ、足には(水陸両用の)亀毛の草鞋を履き、詩は書かなくても心中で吟じている。大愚良寛は水月の道場こそ虚仮でありながら真なのだと、矜恃をもって示したのではないか。
 良寛の筆跡から強い矜恃は感じにくいが、木庵禅師は同じ心を書において実在化させる。『撰集抄』には「兎角の弓に亀毛の矢を矧(は)げ空華(化)の的を射る」とあるが、それこそ幻なれば変幻自在。木庵禅師だけがこれと信じる兎角の杖があったっていい。禅僧の持つ杖(錫杖、拄杖)は二足歩行の補助に持つわけではない。いや南天棒(中原鄧州老師)のように、杖と思わせていきなり殴る禅僧さえいた。兎角の杖などあり得ないのは承知だが、あり得ないものでさえ心血を注げば現前する。
 拂子も禅僧には日用具。本来はハエを払う道具だったものが、葬儀で導師が持ち、意味ありげに揺らすうちにそれらしい役割を担うようになった。恐らく禅師の生きた江戸時代初期でさえ、拂子を合理的に説明するのは難しかったのではないだろうか。
 杖と拂子が使いこなせたら一人前の禅僧なのかもしれない。

2024/09/01 墨 2024年9・10月号 290号(芸術新聞社)

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