墨蹟「不生」
盤珪永琢
江戸時代 17世紀
紙本墨書 29.7×56.0
九州国立博物館蔵
出典:ColBase
臨済禅は、白隠(はくいん)禅師が中興の祖とされ、今に伝わるのは全て公案を用いるその流れだけになってしまった。しかし白隠以前にはもう少し多様な禅があり、言わばその代表格がこの書の筆者、盤珪永琢(ばんけいようたく)である。
「盤珪さん」と呼びたくなるこの方は、十二歳のとき『大学』のこの言葉に出逢う。「大学の道は明徳(めいとく)を明(あき)らめるに在り」。いったい「明徳を明らめる」とは何か、儒家に尋ねても満足な答えが得られず、爾来盤珪さんの旅が始まる。菩提寺の浄土宗西方寺や真言宗円融寺を訪ねるも埒はあかず、やがて十七歳で赤穂随鴎(ずいおう)寺の雲甫全祥(うんぽぜんしょう)和尚の許で得度する。そして永琢の名を授かるのである。
播磨の浜田で生まれた盤珪さんは、二十歳で初めて行脚に出るのだが、その足跡は追いきれない。京都の松尾神社の拝殿で断食したり、五條の橋の下で貧者の群れに混じって修行したり、大阪の天満の不動堂では浮浪者と暮らし、九州豊後ではハンセン病患者と暮らすなど、破天荒な日々を命懸けで送っている。徒歩で移動した時代、少なくとも岡山、長崎、江戸、美濃、吉野、伊予などは確実に遊歴している。
三十六歳で印可を受けた盤珪さんは、四十歳で故郷浜田に龍門寺を建立。他に大洲の如法寺と麻布の光林寺を開山し、無数ともいえる道俗を導く。教えはシンプルで、「人々皆親のうみ附(つけ)てたもったは、仏心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわいの」と播磨弁で語りかけ、誰にでも「不生の仏心」があることを自覚せよと迫った。いわば徹底的な性善説で、迷いも苦しみも縁によって自ら作りだしただけだと説いた。生来具わり、いつ生まれたとも云えない仏心を「不生」と呼び、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のすべてが「不生の仏心ひとつ」で調い、活き仏になれるというのである。
独特なのは修行についての考え方で、自分は渇きを感じ、余計な苦労をして谷底まで水を汲みに行ったが、その水を信用して飲む人は皆渇きから解放される、誰もが苦労して谷底に降りる必要はないというのである。自らには徹底して厳しく、人には慈悲で接した盤珪さんらしいが、はたしてそれで盤珪さんの禅が受け継がれていくのだろうか。
結果として答えは「否」である。谷底から戻った人に水をもらい、渇きは解消されるとしても、自ら谷底に下った人の味わう水の旨さは格別だろう。また上で待つ人々に水を分ける喜びも菩提心を培う。結局盤珪さんの不生禅は、谷底に降りる後続なく潰えてしまうのである。
尤も、盤珪さんの明らめた明徳は、自分の禅が受け継がれることなど想定していなかったのかもしれない。関防の「臨済正宗」印は、隠元(いんげん)に先立って来朝し、盤珪さんを評価した黄檗僧道者超元(どうしゃちょうげん)の影響だろうか。黄檗僧通有の印である。いずれにせよ盤珪さんにとっては「不生の仏心」の顕現こそが明徳であり、臨済正宗の核心だったのである。
2025/01/01 墨 2025年1・2月号 292号(芸術新聞社)