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夢見る「老衰」

 ここ数年、長く不動だった日本人の死因に大きな変化が現れている。一位悪性新生物(がん)、二位心疾患は変わらないものの、三位だった脳血管疾患が四位に後退し、浮上したのは老衰である。概して言えば、がんと老衰は徐々に増えつづけている。
 お寺という現場での実感からすると、直接の死因欄に「老衰」と書かれた人も、けっしてがんと無縁なわけではない。がんの経験はあり、いや場合によっては死ぬまでがんを抱えていたけれど、それが死因ではないという主治医の判断なのだろう。つまりがんを患っていても老衰は可能なのだ。
 かなり昔の話だが、老衰と自然分娩は病気ではないのだからと、入院期間中の保険がおりない、などという時代があった。今はそんな保険では通用しないが、老衰や自然分娩が病気でないという認識に変わりはない。実際WHOは、一九四八年に採択した「国際疾病・傷害及び死因統計分類表」で、老衰を独立した項目にせず、診断名不適当の状態として一括している。現在も死因不明死亡数の中に含めているのである。
 つまり、老衰ががんや心疾患などと並ぶ主な死因になることは、およそ他の国では考えられないことなのだ。日本だけのこの事態はいったいどうしたことだろう。
 老衰とは、加齢による老化に伴い、細胞や組織の能力が全般的に低下し、多臓器不全によって生命活動の維持が難しくなること。手許の辞書にはそう書いてあるが、そんな場合でも、以前は心不全や心筋梗塞、脳卒中や肺炎など、目立つ疾患を直接死因に書くことが多かった。そうして二〇〇〇年までは老衰がどんどん減りつづけたのだが、そこで反転し、およそ十七年後の二〇一七年には老衰死が二〇〇〇年当時の五倍に増えたのである。なぜだろう?
 日本人は、主に老衰死を指して「寿命がきた」とか「天寿を全うした」「大往生」などと言う。そうなれば、医師にとっても遺族にとっても、やむを得ない死であり、それどころか言祝ぐべき死にもなる。患者の家族たちのそうした空気を感じ、主治医も「よく頑張ったじゃないか」と、花丸を送るつもりで老衰と書くのではないか……。もしかすると、それは医学的所見というより、むしろ死生観に由来する判断なのではないか……、そんな気がするのである。
 じつは私も、この三年でがんを含む三度の手術を受けた。しかし何の病気であっても、いつか無益な戦いをやめ、現実を従容と受け入れる時が来れば、そのときはきっと天寿だと思うだろうと、勝手に予測する。さほど長命ではなくとも、その際は「老衰」と書いてくれるよう、今から主治医に頼んでおかなくてはなるまい。

2025/02/10 がん研有明友の会会報「有明の風」64号

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