ささがに図
仙厓義梵
江戸時代 18世紀
紙本墨画 1幅 86.0×28.4
慶應義塾蔵(センチュリー赤尾コレクション)
私の手許に、「此竹(このたけ)画讃」と題された仙厓義梵(せんがいぎぼん)(1750~1837)の軸物がある。おそらく左の軸と似た時代、つまり仙厓晩年の作だろう。この絵と同じように何本かの笹が描かれ、讃には「此竹ハちいさけれども奴(ぬ)っと来た」とある。老子の「柔弱」の思想、つまり小さく弱く柔らかいものこそ本当は強い、という考え方を感じさせる。
四十で博多聖福寺の住職になった仙厓は、五十二歳のとき「従前の聡と明とを失却す」と偈に書き、優秀さや聡明さを目指さないことを誓う。六十三歳で一旦住職を引退し、閑栖(かんせい)したのも「虚白院」。「聡明」の否定や「虚白」はいずれも『荘子』に由来する言葉。晩年の仙厓に、老荘思想は相当深く沁み入っている。
大胆な言い方をすれば、儒教が管理者側の思想とすれば、老荘思想は被支配者、いつも権力に振り回される人々のための思想である。
行政の仕事を見れば想像もつくだろうが、為政者たちは常に目標を定め、その実現に向けてとにかく邁進する。そこでは様々な出逢いも無視され、とにかく「志」とその実現こそが讃えられる。
一方の一般庶民は、お上の決め事に無力に従い、天候に左右され、人との出逢いに力を得てなんとか生きていくしかない。そこでは変化に応ずる応化力こそが重要で、だからこそ仙厓は、無限の応化力の権化である観音さまを晩年深く信仰し、「円通」とも号するのである。
以上を前提にして、今回の画讃を見てみよう。まるで力強くない笹数本と、右下のほうに描かれたのはどうやら蜘蛛(くも)らしい。蜘蛛の古名は「ささがに」(笹蟹または細蟹)と言い、仙厓は両方のイメージを採り入れているようにも思える。
讃は「ながむれば唯(ただ)ひと筋尓(に)さゝがに(蜘蛛)の雨風かけて結ぶいとなみ」。
蜘蛛はじつに見事な網状の巣を作る。しかしそれもじつは風に吹かれて躯(からだ)が思わぬ処まで運ばれ、雨にも流されながら予想を超えた軌跡が描けたおかげではないか。仙厓はきっとそう言いたいのだろう。
思えば美濃の貧農の次男として生まれ、清泰寺の小僧になったのが仏縁の始まりだった。武州永田(現在の神奈川県横浜市)の東輝庵(とうきあん)の月船禅慧(げっせんぜんね)の元で厳しい修行に明け暮れ、一時は自棄(やけ)になって東国行脚にも出たが、先輩の物先海旭(もっせんかいきょく)や誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)には心から励まされた。また一番年長の先輩だった太室玄昭(たいしつげんしょう)の推挙により、これまで縁もなかった博多聖福寺、扶桑第一禅窟の住職にもなれたのである。そして博多の人々も、慕ってくれている……。見事な蜘蛛の巣ではないか。
あまりに墨跡を頼まれ、「うらめし」くなって八十三歳で「絶筆宣言」をするのだが、その後も結局は蜘蛛が糸を吐きつづけるが如く、縁に応じて禅画を描く。仙厓の、縁を活かした独自の禅である。
2025/07/01 墨 2025年7・8月号 295号(芸術新聞社)