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蚊遣りの心

 世の中に、蚊ほど「困った存在」はなかなかあるまい。「嫌な奴」とまで言わないのは、悪気がないのは分かっているからだ。しかし悪気がないとは言っても、媒介する感染症は夥(おびただ)しく、被害は甚大である。国内での感染に限っても、デング熱、ジカウィルス感染症、日本脳炎、またよく分からないチクングニア熱なども挙げられる。
 世界で人間が死ぬ最多の原因は、交通事故よりも戦争よりも蚊による感染症だとされる。
 じつは私も、中学三年の夏休みに日本脳炎に罹った。四十日ほど入院したのだが、原因はコガタアカイエカが媒介したウィルスによる感染である。通常は、牛や豚を刺した蚊が人間にウィルスを伝播するのだが、私の場合は牛や豚ではなく、たぶん猫か犬だろうと言われた。動物が小さい分症状も軽かったのかもしれないが、それでも四日間四十度を超える熱を出し、そのときはある種の臨死体験もした。
 そんな体験をすれば、蚊を異様に怖れても無理はない。ところがそれからほどなく、鎌倉で修行中の従兄(いとこ)が制間(安居の間の休息)にうちの寺にやってきて投宿した。夕食を待つあいだに室内で坐禅する姿に感動したのだが、近くでよく見るとその頭や首、手首のほうまで多数の蚊がとまっている。なかには腹を赤黒く膨らませた奴もいて、見ていた私までかゆさが伝染してくる。思わず訊いてみた。
「かゆくないんですか?」
 するとその従兄の雲水、顔をくしゃくしゃに歪ませて答えた。
「かゆい!」
 まるで私が訊いたせいで急にかゆくなったかのように、急に全身をぶるぶるっと震わせ、動物のように不器用に蚊を追い払ってから、また平気な顔で坐禅に戻ったのである。修行僧とはいったいどういう生き物なのかと、不思議に思った記憶がある。
 その後私は曲折の末に二十七歳で京都市嵯峨野の道場に入門した。当然、坐禅中は動けないから、夏の摂心(せっしん)は汗と蚊との戦いになる。いや、汗を好んで蚊は寄ってくるようだから、蚊にしてみれば客引きのいる出血大サービスではないか。特に嵯峨の蚊は「嵯峨蚊」と呼ばれて躯が大きく、針も長かった。
 雲水たちはその長い針を利用し、彼らが麻衣(あさごろも)の隙間から差し込んだ針が皮膚に届く頃、わずかにその場所を動かして抵抗した。つまり、深々と差し込まれた針をここぞと狙って折るのである。深手を負った蚊はよろよろと離れ、二度と近づいてこないように思えた。
 しかしどだい大群のほんの一部の負傷である。また別な蚊が首や頭にとまれば打つ手はない。動いて蚊を一時的に追い払うことも考えるが、そうすると先輩の直日(じきじつ)さん(堂内の取り締まり役)が「動くな」と怒鳴り、警策でしこたま打たれる。蚊に刺されるほうが警策よりマシなのは明らかだった。
 どうしてこんな苦しみに、雲水は耐えなければならないのか……。感染症について、僧侶たちは一体どう考えているのか……。道場にいる間は理不尽としか思えなかったものだが、今になってみるとそこに込められた仏教や禅の心が感じられる気がする。
 やはり不殺生戒は重大な原則なのである。お釈迦さまは土中の虫を殺すからと農耕を禁じ、一方、中国の百丈禅師は雲水たちの生活のためにそれを解禁したが、植物の命を戴くのと同様、我々はそれがないと生きてゆけない状況でもなければ、どんな小さな命も奪ってはならないのだ。
 例外を認めれば原則はすぐに崩れる。それに蚊を殺し続けるのはあまりに多勢に無勢の徒労である。その辺のことも、この国の人々は古くから承知していたのだろう。昔から日本では、蚊は叩いて殺すのではなく、「蚊遣り」で追い払った。ヨモギの葉や木屑などを燻(いぶ)し、あるいは蚊の嫌がる香を焚いて、寄ってこないようにしたのである。
 また蚊帳(かや)を吊る習慣なども、敵と刃を交えないじつに平和的な文化ではなかっただろうか。
 やがて明治時代になると除虫菊の殺虫成分「ピレトリン」が発見され、それを含んだ蚊取り線香が一般に出まわる。これなども、殺虫成分とはいうものの、まだ蚊遣りの心を残した長閑(のどか)な風物である。
 最近は「ピレトリン」によく似た化学構造の合成殺虫成分「ピレスロイド」を発する電気仕掛けの蚊遣り器が優勢だが、これに耐性をもつ蚊の存在が報告され、再び除虫菊の蚊取り線香が注目されている。
 こうして蚊と蚊遣りのことばかり述べてきたが、これもひとえにお盆が来るからだ。
 盂蘭盆会とは、期間限定の博愛シーズン。普段はどうしても虫や動物よりも人間を贔屓(ひいき)し、自分の家族を余所の家族より優先することでこの社会の安寧は保たれている。しかしお盆には「地獄の釜の蓋があく」。つまり抑圧し、地獄に押し込めていたすべての命たちを、期間限定で解放するのである。身の安全と好き嫌いのため、いつもは無下に殺している虫たちにもお盆くらいは慈悲を注ごう……。お盆とは、そんな懺悔とチャレンジの期間なのである。
 有縁無縁三界万霊の中心はむろんご先祖だとしても、とにかくお盆中は蚊を殺さずに遣る(追い払う)。それができなければ逃げ回ってでも、殺生はするまい。

2025/07『紫野』67号(臨済宗大本山大徳寺)

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