福澤諭吉
33.5×87.4 横額
慶應義塾図書館蔵
吾が母校、慶應義塾の基本精神とも言うべき言葉だが、さすが提唱者本人の文字とあって力が籠もっている。じつはこの言葉、明治二十三年から『修身要領』が編纂された際、福澤の思想を端的に要約する語として門下生と福澤とで協議して決定された。その成り立ちからして、じつに啓蒙思想家の面目躍如と言えよう。(因みに揮毫は明治三十二年以後)
福澤諭吉は、豊前中津藩(現在の大分県中津市)の大坂(大阪)蔵屋敷に勤める下級武士の家に五人兄弟の末子として生まれた。生来合理主義を好んで迷信や因習を嫌い、数え二十一歳で大分から長崎に遊学して蘭学に出逢う。海の向こうの自由と平等の思想に目覚め、後に福澤は「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と封建社会の悪習を批判する。
藩命により江戸に蘭学塾を開くと、二十六歳で英語を学び、翌年には咸臨丸で渡米、更に二十九歳でヨーロッパ使節団に加わり、フランス、イギリス、オランダ、ロシアを歴訪するのである。
福沢はその後、『学問のすゝめ』を十七編まで連続で出版し、新たに出発した民主主義国家に見合う市民の育成に尽力した。『学問のすゝめ』の主な主張も、じつはこの「獨立自尊」に集約できるだろう。
『修身要領』第二条によれば、「心身の獨立を全うし自からその身を尊重して人たるの品位を辱(はずかし)めざるもの之を獨立自尊の人と云ふ」とあり、大学のHPでもこれを引用している。また『学問のすゝめ』には、「獨立とは自分にて自分の身を支配し他に依りすがる心なきを云ふ」と説き、智恵と財の双方における独立の必要性を訴えた。しかも「一身獨立して一國獨立するとは此事なり」と言い、個人の独立があって初めて国の独立も叶うというのである。
安易に人に頼るな、自分で学び、自分で考え、自分で決めよ。そして国家としての独立も守り抜け、というのだが、ペンや言葉の力を信じる福沢は、自由民権運動の主旨には賛同しつつも距離を保った。感情に流され、徒党を組む運動の在り方には与(くみ)しなかったのである。
現代社会で個人の独立を危うくするもの、それは端的にSNSではないだろうか。真偽入り混じり、時に多勢を頼んで感情的に批判し、炎上や称讃に一喜一憂する。一方福澤は、漢書で見つけた「喜怒色に顕さず」の教えを生涯守ったといい、じつにクールで、「血に交わりて赤くならぬ」とか「浮世のことを軽く視る」とも書き残している。
国の独立については、トランプ旋風への対処が喫緊の課題だろうが、もはや自給自足など望めない国であれば、各国との交友を重視し、戦争を防ぎ、その上でしっかり独立を保たねばなるまい。
最後に「獨立自尊」を定義する「品位」という言葉に注目したい。福沢は学問こそ人格や気品の泉源と信じた。宗教を否定した彼の宗教かもしれない。因みに明治三十四年に亡くなった福澤の戒名は「大観院獨立自尊居士」。お見事。
2025/11/01 墨 2025年11・12月号 297号(芸術新聞社)
