この言葉、近頃しょっちゅう見聞きする。パワハラやセクハラ、カスハラあたりまではすでにお馴染みだろうが、最近は働きながら介護を行なう人への嫌がらせであるケアハラ、また楽しさを押しつけるエンハラ(エンジョイ・ハラスメント)、臭いで人を不快にするスメハラ(スメル・ハラスメント)まであるらしい。もはや「〇〇ハラ」という造語を楽しんでいるのではないかとさえ思う。
とうとう出た、と思ったのがハラハラ。これは「ハラスメント・ハラスメント」の略で、正当な行為や言説をハラスメントだと主張する嫌がらせのようだが、やはり言葉あそびの印象である。
ところが対策は大まじめで、二〇二〇年にはハラスメント防止法が施行され、厚労省は懇切にHPで指導し、ある程度以上の規模の会社では研修が義務化された。
さまざまなハラスメントはあるものの、基本は「自らの優位な立場に乗じた嫌がらせ」。こんなことがいったいどうして蔓延するのだろう。これはあくまで私の個人的な意見だが、まずはこの「優位な立場」を本気で自己同一化している点が挙げられるだろう。
アメリカという世界一の大国の今の大統領に見られる症状が典型的だろう。誰もまだ「トラハラ」とは言わないようだが、各国にいろんなディールを求める彼の態度は、明らかに相手国の大小で変わる。中国(習近平氏)やロシア(プーチン氏)に向き合う時と、ウクライナ(ゼレンスキー氏)やカナダ(マーク・カーニー氏)相手では、どうも様子が違うのだ。ヴェネズエラやデンマークなどに対しては、軍事力に基づくパワハラを感じるのだが如何だろうか。
そしてもう一つ、ハラスメントが蔓延する背景には、自分にとって正しいと思えることは、どんなに強く主張してもいいし、それは聞き入れられるべき、という子供じみた思い込みを感じる。
人の世がそれほど単純でないことは、数十年生きなくともわかるはずだし、結局戦争とは、正義どうしのぶつかり合いである。世界各地で戦争が起こるのも、ハラスメントの流行と地続きなのではないか。
昔の中国には荘子(そうじ)という偉い思想家がいた。彼はあらゆる言葉を「風波」の如くアテにならないとしたうえで、自分が使う言葉は「寓言(ぐうげん)」「重言(じゅうげん)」「巵言(しげん)」だけだとした。寓言とは喩(たと)え話、重言とは誰か古人の言葉の引用、また巵言の巵とは底の丸い盃で、笑いの起こる臨機応変の言葉を「巵言」と呼んだ。いくら正しくとも、人に聞き入れてもらうためには笑いをはじめ多くの工夫が必要ということだろう。
中国のもう一人の思想家老子は、笑いこそ真理(笑いは道に幾(ちか)し)と言った。ハラスメントも人間くさい所業かもしれないが、笑いこそ人間を人間たらしめる最も大切な文化ではないか。
2025/11/02福島民報
