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座右の銘「天鈞」

「座右の銘」。それは、生き方に迷ったとき、魂に力を与えてくれる希望の言葉。あるいは信念が揺らぎそうなとき、初心に帰らせる戒めの言葉――各界でご活躍中の方々に伺いました。あなたの、人生という旅を導く「座右の銘」は何ですか?

天鈞(てんきん)

天から見れば、すべてが釣り合っているという意味です。
 われわれ人間は、つい、何かと比較をしたがるでしょう。高い低い、できるできない、とかね。けれど、高くにある天界から見れば、すべてバランスがとれているんです。個人だってそう。
 例えば、非常に絵の上手な人がいるとしましょう。でも、実はトイレの使い方が下手。じゃあ、トイレの使い方を上手にすればいい。ところが上手になった途端に絵が描けなくなったりする。
 ……こんなことは、実はよく起きます。良い才能を伸ばして、悪い習慣は伸ばさずにおく、なんて都合よくはいかないんです。その人の中で、個々の才能や特質が、どのように絡み合って形成されているかなんて、誰も知るわけがない。だから、「世間が自分に対して下す判断は、信じなくていいよ」と、ね。人間は長所短所、両方あってこそ、その人たりうるんです。
 一方では、自分でとても自信がある点が、実は大したことではなかったり、逆に卑下している自分の性質が、むしろ、非常にいいことだったりします。天は、そんな気づきも与えてくれます。
 ただ、25歳くらいまではあまり考えすぎず、独立開業したいなど自分の目標に向かって、がむしゃらに努力していいと思いますよ。私の場合も、やりたいことを一つに絞ることができず、20代は模索していましたから。

その後、27歳で天龍寺道場の門をたたき、修行への道へ入られました。

そうです。私はお寺(福聚寺)の跡継ぎでした。物心がついたころには、やはり宗教全般に興味がありました。けれど若い時分は、どうしても僧侶にはなりたくなかったんです。何よりも小説を書きたいと思っていました。
 小説との出会いは、小学校3年生のときに文庫で読んだ、『怪盗ルパン』が最初でしょうか。その後、自分でストーリーを考え、テレビアニメ「ポパイ」の登場人物が活躍する漫画を描いていましたね。5年生ではいきなり芝居に目覚めて、昼休みにホームルームで自分の寸劇をしたら、これが大ウケ。すっかり味をしめて、先生のリクエストに応じて、ほかのクラスにまで巡業を(笑)。
 ……まあ、本格的に目指すには至りませんでしたが、大学での専攻は文学部の中国文学で戯曲でした。卒業後も、テレビの脚本の下書きなど、書くことには、ずっとかかわり続けていましたね。
 宗教について、何となく文章にしたいのに、坊さんになるのはちょっとイヤ。これでは、しんどいですよね。で、壁にぶつかってしまった。結局、その当時は「職業は一つに絞ってこそ美学」という思いに、とらわれていたようです。そこで、修行が面白そうだったので、思いきって出家しました。新しい生活がハード、かつ楽しかったので、それから41歳までは1行も小説を書きませんでしたね。不思議なことに、ふっと見ると、壁がなくなっていたんですよ。さんざん私を苦しめていた、あの壁が。そのとき「どうしてなんだろう?」って思いましてね。
 結論は、自分の居場所を変えたから、自分も変わった。そのときの景色、つまりは「ものの見方、考え方」も、変わったんです。何かで思い悩んでいる方も、その状態で、今の景色の中だけで悶々としているでしょう。自分が一歩動けば、景色は変わるんですよ。

そして、小説家にもなられたと

そのときに、気づいたんです。世間的価値で、宗教と文学を考えていたなあ、と。僧侶と小説家との選択肢で選べないのならば、両方やればいいんだと。
 そもそも、僧侶も小説家も、世間が決めた職業でしょう。研究者が便宜上、都合よく分類した植物図鑑と同じなんです。勝手に分類した職業を、われわれは鵜呑(うの)みにして暮らしているわけです。
 だって、考えてもみてください。無粋な話ですが、僧侶の仕事ってどんなものだと思われますか? 檀家さんがいらっしゃって初めて経営が成り立つんです。お葬式が ――聞こえが悪いですが ――そのまま営業になります。それ以外、お寺の宣伝の手段はないのですから。とにかくお葬式を、真剣に執り行う。結局、お寺の仕事は企画・営業・編集の仕事がミックスされていると思いますよ。敷地や家屋を含めれば、庭師や清掃業という仕事もね。ですから、さまざまな職種にクロスした仕事を目指す人にとっては、世間が決めた職業という枠に、当てはまらない。枠からはみ出す。だから「虻蜂(あぶはち)取らず」っていう目で見られてしまうんです。
 私だって、実はそうなんですよ。もし、芥川賞をいただかなかったら、「あの坊さん、寺の仕事もしないで、いったい何を書いているのやら……」。
 まあ、いわれて当然ですけれどね、そんな場合には頭を下げて、「反省するふり」をします(笑)。いいんですよ、自分が大切にし、納得ずくでやっているものに対して、なんら反省する必要はないんだから。でも、そんなことでいちいち世間とケンカする必要もない。だから「反省するふり」をきちんとする。こうしてみると、世間との折り合いをつけるって、案外簡単でしょう?
 世間に自分を合わせて考えると、いかに苦しいか――。今の若い世代は、ここに端を発する悩みが、非常に多いんじゃないかと思います。

『Insight』読者に対して、メッセージをお願いします。

先にもいいましたが、「自分」というものは、世間の単純な物差しで、測ることはできないんです。世間の見方を、そうそう信じたら、萎縮してしまいます。
 いい例があります。ハイポニカトマト※2)をご存じですか。植物学者の野澤重雄氏が発明したハイポニカ理論によって育てたトマトで、なんと1粒のトマトの種から1万数千個の実がなります。簡単にいうと、植物の潜在的な生命力を最大限に発揮できる環境(土の代わりに水中心で栽培)をつくった結果、驚異的な生産量を得たんです。野澤先生は「まだ小さい苗の段階で、植物に『思いっきり生長してもいいんだよ』と信じさせ、安心感を与えることが重要」だと説いています。植物ですら、潜在能力を発揮できるんですよ。
 われわれは、小さいころからの世間とのかかわりで、「自分はこの程度の人間(脳力)だ」って、いつの間にか思い込んでいます。それを取り払えば、いわゆる神通力が出てくるんです。
 禅の言葉で「蚊子(ぶんす)の鉄牛を咬むが如し」※3)という表現があります。字のごとく鉄でできた牛を、蚊がチクリと刺す。――そんなこと、無理に決まっていると思うでしょう。ところがどうして、蚊が牛の血を吸うかもしれない。そんな予想不可能な真実がある、という意味です。人間も同じで、常識的な判断を超えた力を発揮できるんです。
 つまり、世間によって刷り込まれた自分の意識が、「脳力を発揮すること」を抑制しているんです。例えば3日間も眠らずにいられると思いますか?「無理でしょう」という思い・常識が、人を眠らせてしまうんです。実際、7日間眠らなくても大丈夫だったりね。現に、9日間の不眠を課している修行※4)も、天台宗では特別にありますよ。
 問題は、どうすれば、おのれの常識から解放されるか、です。そのためには、良い方向のイマジネーションを持つようにするといいです。例えば「○○したら脈拍が上がってしまう」と、考えた途端に脈拍が上がってしまう(笑)。
 身体のほうが、期待に応えてくれるんです。だから少しでも悪いイメージはダメ。例えば「ガンになりたくない」と、ずっと思い続けているだけで、ガンにかかったりします。述語は「なりたくない」でも、「ガン」というネガティブな単語があります。イメージが身体をリードすることって、多いんです。
 いかに、自分を勇気づけるようなイメージを描いて、行動できるか――。
 強靱なイマジネーションが必要ですが、これがとても重要ですね。
 あと、もう一つ。
 少し前の時間、過去の時間を、思い切って捨ててしまうことです。
 これについては、「青山緑水」という言葉があります。自然の美しい景色――動かない山と、動き続ける水と。動と静があらゆる多様性をもって存在し、絡み合い、矛盾なく収まっている。それが自然というもの。そして川の水は絶えず流れているから、淀まず透明なままです。瞬間ごとに、生まれ変わっている。人間も同じです。積極的に自分の内面を変えていく、そのためには常に新しく生まれ変わっていかなければならない。このスピードアップが、自分を淀ませないための秘訣。これには、「前の時間を捨てる」と、いいんです。
 さっきまで泣いていても、すぐにニコニコするが吉。瞬間ごと、新しい自分で、これからを生きていきましょう。


※1)天鈞…「鈞」は中国の古代から明代まで用いられた質量単位。1鈞は30斤で、約18キログラム。
※2)ハイポニカトマト…ハイポニカ農法は、土を使わず水耕栽培にし、徹底した管理下で植物にとって最適な根圏(水・肥料)を、最適で最良の環境にして育てる方法。縦横無尽に根や枝葉が伸び、中心の茎は木のようになる。
※3)「蚊子(ぶんす)の鉄牛を咬むが如し」…『碧巌録』第58則。『碧巌録』とは、北宋初期から晩期に作成された禅の教本。
※4)9日間の不眠を課している修行…千日回峰行の「お堂入り」では、700日を満行した後、不眠、不臥、断食、一切の水を断つ行を9日間続ける。千日回峰行は天台宗比叡山延暦寺の修行で、比叡山山中や京都市内を7年がかりで千日間、計4万キロを歩く荒行。

2005/09/15 Insight掲載

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