慶應での学生生活
玄侑さんは慶應の中国文学専攻ということで、まず最初に慶應義塾での学生生活の思い出をお聞きしたいと思います。
大学時代は物を書きたいという気持ちがちょうど高まっていた頃です。当時、生き方に迷っていてそれを考えるために物を書いていたので、同じ慶應文学部卒の車谷長吉さんみたいに図書室で文学に触れたから書くようになったわけではないんです。学生であることを隠して様々な仕事をしたりしていたので、あまりいい学生とは言えないですね。
当時の中文は十二人しか学生がいなかったので、講義を休むと、藤田祐賢先生が「今日は何で来ていないんだ」と電話をくれました。中華料理屋で授業をするようなアットホームな雰囲気だったので、休みがちでも落ちこぼれずにいられました。
語学が好きで、アラビア語、フランス語、中国語を同時に勉強していたんですが、一つの言葉だけではなく、他の言葉も一緒に勉強したら効率がいいと思って、アテネフランセ、虎ノ門アラビア語学院、新橋の朝日中国文化学院の三つに同時に通っていました。結局、中国語が言語として一番刺激的だったから中文に入ったわけで、最初は別に文学的な刺激を求めたかったわけではないんです。
玄侑さんは僕より五、六年あとのご卒業ですよね。中国では文化大革命があったりして、日本の過激な学生運動もかなり盛んな時代でしたが、その頃にはほぼ終わっていましたね。
入学したての頃は一応日吉にバリケードがあったんですが、学費値上げ反対という程度のことを訴えているだけでした。
学生運動で政治体制に反抗というようなことはもうほとんどなかった頃ですね。卒論は現代文学を対象にされたとのことですが、慶應の先生との思い出は何かありますか。
卒論は佐藤一郎先生に見ていただきました。一九二〇年代の中国の現代喜劇、特に丁西林(Ding Xilin)という方の作品をやりました。佐藤先生は私の小説を読んで陶淵明みたいに手紙を書いてくださったので、うれしかったです。非常に刺激的な先生がいる一方、岡晴夫先生のような着実で剛気な先生がいたおかげで、中国語そのものへの興味はずっと持ち続けられました。
今Ding Xilinと発音されましたが、玄侑さんの中国語は非常に正確ですね。あの時代の先生方は中国語の読解に力を入れられていて、発音の正確さはあまり問わなかったように思いますが、慶應中文の先生方はとても正確な発音をなさっていらっしゃいましたね。
放射能と心の生産性
僕は福島県の郡山出身なんです。玄侑さんは三春町なのでお隣ですね。
郡山でしたら古川日出男さんと一緒ですね。
母方が二本松のお寺で、うちの実家は天台宗の観音寺なんです。白河にも僕のいとこがやっているお寺があります。
そこも天台宗ですか。
そうです。そこも観音寺です。玄侑さんはお寺の道に進むことについてかなり前から考えていたんですか。
うちのお寺では父が初めての血縁の後継ぎだったということもあって、そうでもないんです。父は三十四世ですが、三十三世までは血はつながっていない。暗黙のプレッシャーは感じていましたが、父からは、はっきりと「継いで欲しい」と言われたことはありませんでした。周りで言ってくる人はいましたけれど。
慶應に通っていらっしゃったころは、お寺を継ぐとは考えていなかったのですか。
中学生くらいの反抗的な頃に、宗教と生活の問題で父とぶつかることが多かったので、自分の中で宗教に対する興味はどんどん大きくなっていきました。その一方で、物を書きたいという気持ちも大きくなっていき、書くことのテーマも自然と宗教的なものになりました。物を書くか、坊さんになるかを二者択一的に捉えていたので、結構悩んでいました。「書くことと生活はきっちりと分けられないことだし、両方やってみたら」とある先生から言われて、初めて両方やってみる気持ちになりました。
芥川賞を受賞された『中陰の花』は、僧侶であることと、文学作品のテーマが自然と融合している作品だと拝読しました。宗教的な作品は、一般に世界の真理の探究に焦点をあてる作品が多いですが、玄侑さんの作品は、ご自身が僧侶であることで、生活をしている中での一つ一つの悩みがリアルに深まっていくように思います。
宗教は個別の悩みにその都度対応しなくても、教義で大体解決してしまえるという面があって、死んだらどうなるのかという問題も、個人の体験を踏まえて対応していくのが基本ですが、最初から浄土観を提案する宗派もある。でも、私は教義では解決したくないんです。禅の場合、「死後のことはわからない」が基本的なスタンスですから、教義として押しつけてくるものがなく、比較的自由です。臨済宗は、禅の中でも構造が台形型で、大本山が十四も並列していて、総本山がない。十四の本山でのやり方がすべて異なるので、原理主義からは一番遠い感じがします。
『禅的生活』や養老孟司さんとの対談の中でも、かなり自由にお話しになっていますよね。一言で何かを言い切ってしまうと、言った瞬間にその言葉はうそになってしまう、言い切ろうとした時の心の状態こそが大事だと。何かを言いあらわしたいと思って周辺をさまよっている状態が本当なんですよね。
日本人は「善は急げ」と「急がば回れ」をほぼ同じ頻度で使っていますが、その両極端を踏まえた上で、その中間のどこかに直観的に着地点を選んでいる。ある言葉のみを原則にすることを避けているのでしょう。
二元論的な対立は避ける。
それでいて、二元の両極端は踏まえておく。中道は、日本人の直観的なあり方なんじゃないでしょうか。
中間はどこかと思考をめぐらすような生活の中に、一つの禅の教えのようなものがあるのでしょうか。
禅とは関係ないかもしれませんが、「あわい」が一番心の生産性を発揮する場所だと思います。昔の言葉で、よく把握しているエリアをシマといい、その外側をタビといった。これらは元々インドの言葉らしいです。シとタビの中間点に心の生産性の象徴のお地蔵さんを置く。「地蔵」は、大地が蔵する能力、つまり大地は五穀を生み出す力を持っているわけですが、後に心の生産性もお地蔵さんが担当することになりました。
地蔵は、韓国や中国には数えるほどしかないし、インドは今や皆無に近いと思います。インドで発生したものが日本でこんなに殖えたのは不思議です。よく把握できているものごとから、わからないものごとに渡る境目に置いて祀ったのが地蔵です。マニュアルでものごとをやり過ごすのではなく、その場その場で考えるのが心の生産性で、それを地蔵は促している。常識や前例に縛られない在り方が生産的な心だと思います。
今回の特集は、「破局から…」で、大きな災厄に見舞われたその先に何があるのか、人間たちはどう災厄に立ち向かい、何を導いてきたのか。こういうことが大きなテーマです。
福島の災厄は、大震災と原子力発電所の事故です。原子力をどう扱うべきか、という今まで日本人が真面目に考えてこなかった問題に現実的に直面している。『福島に生きる』の中でもたくさん発言されていますが、災厄の後の生活とお考えをお聞きしたいです。
『竹林精舎』の主人公の宗圭の悪友で、出家した敬道が出てきます。彼自身は福島の放射能について、危険視する派としない派のどちらの立場にも立ちません。後の場面では、主人公の恋愛対象の千香ちゃんが放射能に対して両極端な気持ちを抱えていることがわかる。「この考えにたどり着いたので、もう考えなくていい」とそこで終わってしまうのではなく、考えが常に書きかえられていくのが実際の人間の気持ちだと思う。放射能をめぐる状況は心の生産性を刺激しているんです。
一般的にこういう作品を描く時、放射能を気にしない人と、極端に危険視する人とが、別々の人として分かれて描かれることが多いと思います。でも、そうではなく、一人の人間の中の二つの面を描きたかった。放射能に対する知識をたくさんつければ安心が増えていくけれど、同じだけの不安もできていく。マニュアルが通用しない目の前の出来事にどう対処したらいいのか、とにかくその場で考える必要がある。だからこそ、生産性が非常に高まって、心が活発になった人々もいると思うんです。もとよりマニュアルとかマニフェストというものは心の固着で、それがあるために心は全く働かなくなる。心を活発にする刺激として放射能という存在を受けとめている人たちは結構いると思います。
原発事故は自然の災厄か
玄侑さんは3・11以降、復興構想会議のメンバーとなり、政府に直接提言されることがありましたよね。
菅首相の時ですね。
いろいろもどかしさもあったと思いますが、今から振り返ってどう思いますか。
毎週一回以上、上京して日帰りするという生活でした。事前に原稿を出していないと発表もできない会議だったので物理的にきつかったです。放射能汚染の問題で、なぜ、牛や豚といった家畜を殺す必要があるのか、という発言をしたこともありました。結局理屈をはっきりさせないまま殺すことになってしまって、本当に残念でした。
『竹林精舎』の中でも書きましたが、チェルノブイリ原発事故の後には、すべての家畜を安全な場所に移動したんです。牛も全部他の地域に移動させて、綺麗な草を二週間食べさせていれば、ミルクからセシウムがなくなるとわかってきた。でも、日本は東大のチームが追加実験をやるまでそういうことがわからなかった。家畜が殺されることに反対して、今でも頑張って牛を生かし続けている浪江の牧場主がいらっしゃいますが、本当に理不尽な話でした。
避難所になったお寺や神社も結構ありますが、宗教施設が津波でダメージを受けても一般の義援金の中からは資金を出さないことになっていたんです。宗教団体は震災の時、行政に対して義援金を何億円も出しています。自分の末寺には義援金を出さないで県に出したんです。しかし県からは宗教施設にお金が下りてこなかったから、「なぜ本山は修復費用を末寺に出してくれなかったのか」という文句も出てくるくらいでした。
継続的に訴えた末、翌年の八月に復興庁から、宗教施設もコミュニティ施設として修復などの支援ができるという文書が出たんですが、結局、申請したところはありませんでした。お盆の八月十七日にその文書が出たので、ほとんどの宗教団体は文書を見ていないし、新聞にも取り上げられなかったんです。
菅さんは官僚に対する敵対心をすごく持っていましたね。官僚は国の復興構想会議に出席する必要があったので、各省庁から来た官僚が私たちの後ろに並んで座っているんですが、彼らは一切発言してはいけないと言われている。これはものすごい空気をつくりました。私が発言すると、後ろのほうで「政教一致」などとつぶやくんです。それは発言ではないという認識なんですね。結局実行するのは彼らなので、発言してもらったほうがよかったと思うんですけどね。
福島が直面した震災は、東北全体の災厄の中でも次元の違うカタストロフだったと思うんです。大津波の災厄と原発の大きな事故の違いは感じましたか。
自然の災厄かどうか、というのは考えました。禅寺は龍を祀っていて、天井に龍の絵があったりしますが、あれは自然の象徴です。一切制御できないものに味方してもらわないと儀式もできないから、儀式の時は龍を呼び込むために太鼓を叩く。親鸞聖人は、阿弥陀仏とは自然であるときっぱり言っている。我々のコントロールのらち外の、拝むしかない存在が自然だと思うんです。
津波や地震は自然として受け入れるしかないというのはわかりますが、原発はどうか。不自然なことも絶対にしてしまうという意味で、自然の範疇に入るかもしれませんが、やっぱりそうは思えない。あれだけ複雑な問題が起こったのに、原発を進めようとする政治的意図やお金をめぐる構造も浮き上がってきていますし。
原発事故で村人の大部分が避難させられた飯舘村に行ってきたんですが、村は外形的にはほとんど無傷でした。震災による物理的な被害はなく、非常にきれいで、一生懸命菅野村長が村をつくってきたのがわかる分、ものすごくショックでした。
あれだけ見事につくられた村に入ることができなくなってしまったのは、どう考えても自然とは思えません。
震災後の運動
『福島に生きる』『被災地から問う この国のかたち』の中で、大自然によって破壊された後、小さな自治を大切にすべきだ、とおっしゃっていましたね。
大震災で自治が壊れて、人々がバラバラになってしまう状況もありますよね。プレハブの仮設住宅をつくっていく過程で、今まであったはずの自治が壊れてしまう。
一時避難所に自治会をつくった後で、また仮設住宅で組織をつくり直さなきゃいけない。最終的に町に戻ると言っていたのに、避難指示解除になって「さあ戻りましょう」なっても、一〇%の人が戻らないからばらばらになってしまう。
チェルノブイリの時は、被災市町村から移れる最大人口五十万くらいまで大丈夫なスラブティッチという町をつくりました。私は復興構想会議の時も、国有地を使って新しい町がつくれないのか、と提案したんです。猪苗代湖の南側にある湖南のあたりとか、三春からいわきに行く途中にも国有地の山が結構あるので、そこに新しい町をつくって、双葉郡から避難した人は誰でも移れるようにできないかと提案したんですが、いくつかの行政をなくしてしまうようなことは難しいということでした。
「たまきはる福島基金」を、理事長として一生懸命進めておられるんですよね。
震災の被害に遭った子どもや若者を支援したいということで、国内は勿論ですが、スイス、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカといった外国からも集まってくる寄附を運用させていただいています。長崎に放射線の勉強に行きたい、とか、広島に行きたい、というような希望を持っている川内村の子どもたちに資金援助をしたり、震災後初めて、葛尾村がクリスマスパーティーで集まる会をした時にも援助しました。福島の子どもたちが親とともに、他の地域で何週間か合宿生活を送る「ふくしまキッズ」という活動を日本各地でやるのも支援しました。会津方面では放射線を気にしなくていいので、保育所や幼稚園の子どもたちを週末に会津に連れていって遊ばせる、そのバスの購入費を出したりもしています。まだまだいろいろな希望があるので、運動も継続できそうです。
復興を進める際、亡くなった方への鎮魂の思いがまず最初になければいけないともおっしゃっていましたね。震災の状況の中、お坊さんたちは宗派に関係なく一生懸命動いたと思うのですが、亡くなった方に対しての思いはどのように集約していくのですか。
仙台市仏教会が、震災が起こって間もないころに「慰霊行事をしたい」と仙台市に申し入れたんです。市や町の仏教会がそう言うと、大概の行政は「ぜひお願いします」となるものですが、仙台市長の女性の方は「仏教だけではいけません」と言いました。そこで、黒住教、天理教、金光教、カトリック、神道などいろいろな宗教の連合会ができたんです。その動きは各地に波及しました。その結果、今まで知らなかった黒住さんからも、私のところにいろいろ行事の案内が来るようになったし、金光教の人とも知り合いました。
震災の後、異なる宗教同士の連携は間違いなく進みました。被災地に限らず、鎮魂行事をしたいという団体が増えたおかげで起こった連携です。鎌倉市もそれが非常に進んだいい例だと思います。
『竹林精舎』を描くきっかけ
『竹林精舎』のお話をくわしく伺っていきたいと思います。さわやかな読後感で、何かとってもいいものに触れたなという感じがしました。
ありがとうございます。
これを書こうと思った動機はありますか。
かなり前に、道尾秀介さんの『ソロモンの犬』を読んだんですが、青春の哀切な思いがもっと描けそうなところでぷつんと終わっているのが印象に残っていて、数年後の彼らの人生を書きたいと思って道尾さんに尋ねてみたところ、「ぜひ読んでみたい」と言ってくれたんです。
道尾秀介さんの『ソロモンの犬』の登場人物四人をそのまま福島の舞台に入れたという話をあとがきで見て、すごくびっくりしました。
むろん、『ソロモンの犬』を読んでいなくても、単独で読めるようには書いたんですが。
一番最初は、現代の卵の生産の状況に疑問を持った若者が、平飼いの養鶏をしていく物語を考えていました。鶏をケージ飼いしてアメリカから輸入した飼料だけを鶏に食べさせて工場生産のように卵はつくられます。卵を産む効率が悪くなる五百五十日を過ぎると、鶏は廃鶏と呼ばれ、トラックで産業廃棄物として運ばれていく。それは幾ら何でも人としてどうなのか。そういう問題を考える若者が、平飼いのちゃんとした養鶏をやるという物語を考えていたんです。
ところが、放射能汚染の問題が出てきた時、卵は話題になりませんでしたよね。ケージ飼いでアメリカからの飼料しか与えていないからこそ全く影響がなかったんです。福島のそんな状況でケージ飼いをやめて、外で平飼いをする養鶏の話など書けるはずがない。
それで思い悩んでしばらく書けなかったんですが、竹やぶという場所への興味が私の中で膨らんでいきました。根っこが全部つながっている竹が集まる竹やぶには放射能の問題もあるので世間的にも注目が集まっていた。お釈迦様の最初のお寺が竹林精舎だったこともあり、福島県のお坊さんのはじまりの話にしたくて、『ソロモンの犬』の秋内静君に出家してもらうことにしました。
ここ数年、散発的にいろいろなことへの興味はあったんですが、それが集大成されるような形であの物語になったという感じなんです。震災後、過疎という問題が目に見えてわかるようになったというのもありますが、お寺という存在も、鵜飼秀徳さんの『寺院消滅』という本が出たように、非常に困ってきている。しかしそんな状況でも、今、新しくスタートを切ろうとする若者の話を書いてみたいと思ったんです。
最近、「長生きできる食事」のようなえげつない健康ブームをよく耳にします。「長生きのためにこれを食べる」というのは、ものすごく下品な感じがします。長生きが欲望になってしまっている。長生きがいいのか悪いのか、わからないというのが私の実感です。
それと同じようなことを感じるのが低線量放射線です。はっきり言って、いいのか悪いのかわからない。再校の段階では「ホルミシス効果」という言葉を入れていませんでしたが、この後入れることになりそうです。
ラジウムなどの効果ですね。
ある程度の放射線が体にいいという論文はいっぱいあります。いいか悪いかわからないけれど何かを選ぶ賭けは人生につきもので、「賭けは大きくなったら引き下がれない」と千香ちゃんに言わせていますが、そういう選択を迫られる場所が今の福島なんじゃないか、と思うんです。あの若者たちは賭けるつもりで福島にやってきて、生きている。だから、読み終わって明るさを感じてくださったというのはとてもうれしいです。
抱き合うことは「一万二千ベクレルの抱擁」になるから、愛し合うことは被爆し合うことだ、という発想には驚きました。あれは本当のことなんですか。
私の体重で七千ベクレルくらい発しているというのは間違いないです。抱擁し合ったら一万以上ですから、みんな中間貯蔵施設に行かなきゃならない(笑)。
玄侑さんの作品には、命の喪失がストーリー展開の早いうちにあるものが多いですよね。今回も宗圭の両親が津波で亡くなっているという話が最初に出てきます。主人公の出家に直接影響したわけではないものの、彼らの死は物語のところどころであらわれてくる。たくさんの命が喪失されたことを思い出し続ける鎮魂に近い意識を持ちながら、物語が進んでいると思ったんですが、それは意識的なことですか。
震災を全部踏まえた上でこの物語を書きたかったんです。
田老町で新しく防潮堤をつくることが決まった後、以前も津波で破られたものをまたつくるのは無意味だと人々は感じている。まだ完成していないところもあるので、防潮堤のないところから海を見て「きれいだね」と住民たちは言う。いざというときに危険でも、こんなきれいな景色はなくしたくない。防災という観点だけに絞り込んでいくのは本当につまらないことです。
防災を良いとすることは、結局、死者を侮蔑していることになる。大きな災厄があった時、死んでしまったらアホなのか。震災の後、行政が人が死なないためにはどうすればいいかと考えるのは当然なのかもしれないですが、「津波てんでんこ(津波が来たら各自てんでんばらばらに逃げろ)」で助かることだけがいいことだとしたら、海の近くの景色の美しいところに住むのがそもそもアホということになってしまいます。でも、実際は、割り切れない。住んでいる人はどこかでいざという時のことを覚悟している。そういう生き方だってありだと思うんです。私はそこを描きたかった。
非常によくわかります。僕は学生を連れて石巻に行った時、漁師さんに案内されて、「こんなところにいたんだよ」と自分の家も含めて見せてもらった。めちゃくちゃになっているのをあえて残しているんですが、家の目の前が防潮堤なんです。
高さが十メーター以上ある。
それがズラーッと並ぶから、何も見えない。漁師さんは「夕方になると、家の前の夕日を見ながらお酒を飲むのがほんとに人生の楽しみだった」とおっしゃっていました。
自分の船が防潮堤で見えなくなるなんて、もう漁師をやれないですよ。
人間は死んだらおしまいではなく、非常に強い、霊的な、何かもっと大きなところでつながっているということを感じます。玄侑さんの小説も、「それでおしまい」という部分は一切なくて、大きなものとのつながりを感じさせます。
問題の先のあたたかな場所
『ソロモンの犬』がもとにあることで縛られることはなく、ご自身が楽しみながらお書きになっているようなところもあったりしますか。
執筆中の後半は楽しかったですが、書き終えた後はかなり苦しかったですね。私自身にはタブーというような意識はないんですが、後書きに『ソロモンの犬』の後の話だということを入れないと盗作扱いされるんじゃないかと、出版社側は非常に気にしたみたいで。私は最初、本歌取りである、と書いたんですが、『竹林精舎』を読んでから『ソロモンの犬』も読まないと何も論じられないと思われたら取り上げてもらいづらくなって厳しい、という問題もあったようですね。
道尾さんの作品の中でのことを既成事実として、その後の人生を書くという場合、きっちり『ソロモンの犬』を認識しておかないといけないですから、私としては相当不自由でしたね。でも、次第に不自由であることが逆に濃い楽しみになっていきました。
道尾さんは道尾さんの世界だし、玄侑さんは玄侑さんの世界なので、二つは全く別物だと思います。
彼らのその後の人生を、私が勝手に設定した場の中に導き入れてしまったわけです。
それも福島のお寺を舞台に持ってくるというのは、普通に彼らのその後の人生を想像するだけではでてこなかったことだと思います。作品の終わりの方で、太陽の光が上から差すうつくしい竹林の岩場は印象的ですが、ああいう巨大な岩は実際にあるんですか。
実在しているかはわかりませんが、秋からやっていた運慶展の写真を撮っている六田さんという方が、私の本の表紙のためにあちこちに行って、真ん中からものすごい光が差す竹林を何カ所か撮ってきてくれました。表紙に決まった写真は、奈良県の神武社という神社の裏手の竹林で、神武天皇が最初に名乗りを上げたというすごい場所らしいんです。小説に出てくる巨大な岩はないですが、モデルにした裏が竹林のお寺はあります。
ぜひ行ってみたいですね。
古いお寺は結構風水にこだわってロケーションを決めている。実は、竹林をつくることで、方向が違うとか、水の向きが違うとかいう問題を修正することができるんです。そういう発想があるから、お寺には竹林が結構あります。
竹やぶは残留放射能を吸い込むから、国のお金を使って全部取り除いてもいい、という話があっても、宗圭は断ります。
この小説には悪人がいないですよね。積み重なった人の善意に温かく見守られて、寺の住職として土地に根をおろす強い意思が宗圭の中に生まれてくる。主人公を支えるコミュニティは小さいけれど、少しそこにいると心が休まる場所に思えて、おもしろかった。
コミュニティの中心にあるのがお寺ですし、本当に麗しいものだと私自身、感じています。都市部を中心にそういったコミュニティがどんどん減っているのに、『竹林精舎』の登場人物たちは、それに逆行するように、都市から離れた温かい世界に入り込んでいった。お寺は今、書くべきことがたくさん残された舞台だと改めて感じます。今まで主人公に坊さんを持ってくることは余りしなかったんですが、今後、短篇でも長篇でもお寺を舞台にして書いていこうと思います。
原発の話では、短篇集の『光の山』の中で「東天紅」という作品を書きました。原発から二十キロ以内のところに住んでいた夫婦を描いていて、奥さんはその家から出たら生きていけないような体なんです。原発の事故があって、「避難所に行け」と言われても、奥さんは一日中ベッドにいるから避難所では暮らせない。そういう体になってしまった責任は旦那さんにもあったので、旦那と奥さんは原発から十キロ圏内くらいのところにずっと残る。
彼らは白色レグホンの鶏を飼っているんですが、東天紅という鶏がある日突然鶏小屋に飛び込んでくる。東天紅は長鳴きで、朝、東の空がピンクになってきた頃にもう鳴くんです。東天紅に白色レグホンたちは鼓舞されて、対抗心のようなものを芽生えさせる。
旦那は、もともとは仏師なんですが、奥さんの体に責任を感じて仕事を辞めていた。生活のためにアルバイトみたいなことを旦那がしていることが、奥さんは悲しくてしようがなかった。そんな時、原発の事故で、避難して住民がみんないなくなり、東天紅が舞い込んできたという状況で、旦那は何を思ったか、動けない奧さんをモデルにした観音様を彫り始めます。作業に没頭するから奥さんの世話もしにくくなってくるんですが、奥さんは彼が仏師の仕事を再開してくれたのがうれしいんです。ようやく仏像を仕上げて、奥さんのところに見せに行った時、旦那は急性の心筋梗塞で死んでしまう。奥さんは全く動けないので、旦那が死んだ後、餓死します。でも、仏像を挟んで二人が幸せそうな死に顔で発見される。それを私は僥倖と書きました。放射能のダメージは決して万人共通じゃない。ある人には人生を取り戻す僥倖に働くこともあるんです。
『竹林精舎』でも、放射能云々を考えるより、宗圭にとっては自分の恋愛やお寺に入って坊さんになってからのはじめての生活のほうが圧倒的に大事なんです。放射能を背景にして、そういう生活がどう動いていくのかを考えた時、放射能じたいが意外にいい方向に働いていることもあるのでは、と思ったんです。放射能の問題があるからこそ、「思い切って」やってみる、という決断も出てくる。竹やぶにも、いいか悪いかわからないけれど、とにかく突入してみようみたいな気分がありますしね。
意味のある偶然
宗圭は大学時代、応用生命科学部だったこともあって、結構、基礎知識はある方だと思うんです。宗圭たちほど放射線の勉強を熱心にすることはないと思うんですが、分断ではなく、一人の人間の中での揺れ動きを書きたかったのでいろいろな思考をめぐらせたかったんです。
今の日本では、こちらか、あちらか、をはっきりと選択することが多いような気がしますね。
今日たまたまトランプさんの訪日の関係で交通規制がありましたが、この訪日を中国がどう見ているのか、すごく気になります。アメリカだけではなく、中国ともいかにうまくやっていくかというのが、極東の平和を考えるにあたって大事なことなんじゃないかと思います。
我々はもっとフレキシブルに様々な視点を持って生きていけるし、人々がお互いに尊重し合って一生懸命生きていけるコミュニティがあり得るというのが『竹林精舎』では描かれている。
物語の終盤で偶然お葬式ができて、亡くなった百一歳のキヌさんの物語がストーリーの筋に大きく影響を及ぼし結論を導く。こんな好都合な話はないと言われてもしようがないとは思いますが、あれは私たちの現実なんです。その時抱えている問題に、たまたま起こったお葬式が影響を与える。そのことをぜひ書きたかったんです。
お葬式が起こったことで計画していたことを練り直さなきゃいけないし、時間もとられて大変なんですが、たまたま亡くなったキヌさんの旦那さんとの物語に宗圭は励まされる。横道のようにキヌさんの話に入っていったのに、結果的にそれが太い筋になる。小説の中では「意味のある偶然」という言葉でまとめていますが、生きていく時間はそういうものに満ちている気がするんです。
福島の三春で住職をなさっていることも偶然かもしれないですが、必然が導く偶然と思われますか。
そのことはもう当然のことになっているので、どうして住職をしているのかと悩んだりはしません。ただ、震災直後は一か月の間に四人も自殺があったりして、つらかった。でも、住職をしている中で、見事な人生の終わりを見せてもらって、励まされることもしょっちゅうあります。お葬式がたまたまそのとき書いている小説に影響を与えることは頻繁にある。
これからも、お寺を一つの重要な足がかりとされながら、同じようにいろいろな人生を書かれていくということでしょうか。
寺を遠景にすることもあるとは思いますが、葬儀屋さんの話も書きたいですね。葬儀屋さんもほんとにいろいろなものを見ています。信心のようなものが現実を何らかの形で動かすことに興味があります。
福島の、破局の最前線でいろいろ格闘してきた玄侑さんが、絶望に浸るような作品ではなく、非常に明るい、さわやかなメッセージが残る一つの作品をお書きになったことには、本当に敬意を表したいと思います。
「破局」という言葉には、「もうおしまい」という響きがします。江戸時代、地震が来ることでナマズ絵が流行ったように、地震によってこれまでの固定的な権威がぶっ壊れて、新興の勢力が出てくるチャンスがあるという考え方は昔からあったと思うんです。地震は天がなさったことですから、破滅というだけではない、もっとクリエイティブな思惑があるんじゃないか、と思います。破局という状態は壊れてしまった既成の権威の側からの見方であって、新しく出てこようとするエネルギーの側から見れば脱皮かもしれないですし、悪いことばかりじゃないと思います。
たくさんの死を見てこられたからこそのお言葉だと感じます。本日はありがとうございました。
2018/01/10 三田文学 No.132(2018年冬季号)掲載