「復興五輪」という言葉はもう使わないでいただきたい、というのが正直な思いだ。
この国の政治家たちは、五輪招致・開催のために、あらゆるものを都合よく利用してきた。最初に利用されたのが東日本大震災の被災地だ。「復興五輪」「復興した被災地を世界に示そう」という方便は、招致の切り札となった。
その後、新型コロナウイルスの感染が広がると、五輪の大義は「復興」から「人類が新型コロナに打ち勝った証し」へとすり替わった。今や、それも不可能なものとなってしまったが。
コロナ禍で五輪開催に突き進む政府を見ていると「祈り」が欠如していると感じる。
この国の仏教伝来の歴史は、感染症との闘いの歴史と重なる。ウイルスという概念も予防接種もなかった時代、天然痘を終息させるには「祈り」しかなかった。仏教を取り入れ、疫病に効く経文を求め、大仏を建造した。確かに非科学的だったが、少なくともそこには「祈り」があった。
東日本大震災から10年たっても、行方不明者は2525人に上る(3月1日現在、警察庁)。死亡届を出せば、生計維持者ならば500万円、それ以外でも250万円の災害弔慰金が自治体から支払われる。それでも死亡届を出せない、出したくない人々がこの数の周囲にそれぞれ複数いるはずである。
「復興」は、ただのインフラ整備ではない。少なくとも東京電力福島第1原発のタンクにたまり続ける汚染処理水の問題が解決されるまでは、果たされないと思うべきだろう。処理水をどうするかという結論以上に大切なのは、地元住民との合意形成である。
時間をかけることをいとわず、風評被害を恐れる住民の声に耳を傾け、風評被害対策を先に講じてみせるなどしてようやく、歩み寄りの可能性が見えてくるというものだ。しかし、政府はこの春、放射性物質を取り除き、国の放出基準を下回る濃度にして、約2年後に海に流す方針を一方的に決めて住民に通告した。
2013年9月、首相だった安倍晋三氏は五輪招致に向けた国際オリンピック委員会(IOC)総会の場で、第1原発の状況は「アンダーコントロール」と言い放った。今回の海洋放出通告に、同じものを感じた。内情を無視した勝手な決定と、抗議を封じ込める強権的な沈黙。それがこの国の政治の作法なのか。
変異株の流行拡大が始まり、感染予防対策が手詰まりになっていた今年4月、私は五輪開催から撤退するなら今がぎりぎりのタイミングだ、という文章を公表した。先の戦争に触れ、手詰まりになった時、この国のやり方がいかに無道であったかを指摘した。人間魚雷、神風特攻隊……。「お国のために命をささげる」以外の大義はもう残されていなかった。
コロナ禍の五輪開催に今、大義は残されているか。誰のための開催なのか。さらなる感染拡大を不安がる人々の気持ちを無視し、強引に開催される五輪は、スポーツが好きな子どもたちの将来の夢さえも壊してしまうのではないか。
2021/07/21 毎日新聞掲載