仏道という「道」

 『私だけの仏教』(講談社+α新書)などという本を書いたせいだろう、なんだか凄い場所に立たされてしまった。前門のトラ、後門の狼じゃないが、後ろには各宗派の陣幕がはためき、前には編集部や読者ばかりか我が宗門の重鎮の顔が浮かぶ。そして「いったいなにを書くつもりか」と黙ったまま睨まれている心境である。
 『私だけの仏教』では、日本仏教の八百万的な在り方、つまり各宗派がヒエラルキーもなく仲良しく共存している状態を讃美した。その上で、自分に合った独自の仏教を作り上げてもよいのではないかと申し上げたのである。なぜなら各宗派とも仏教の総合性を捨て、ある種の奇形になる覚悟で民衆に分け入っていったのだから、我々も自分の好みを強調した奇形を作ろうではないか、ということだ。そのためのメニューとして各宗派を並べ、なんと「ヴァイキング形式」と称した。
 落花は枝に戻りがたし。もうこうなれば、その路線で行くしかないだろう。本心からそう思っているのだから仕方がない。
 お釈迦さまは一人なのに、どうしてそんなに宗派ができたんですか、とはよく受ける邪気のない質問である。一応、経典が膨大になったため、その選択と解釈から分かれたんですね、と答えてはいるが、最近はなんだか、意地悪な答え方をしてみたくなったりもする。つまり、寺や教団の組織維持という、あらゆる組織そのものが持ってしまう本能的な保守機能という側面である。それがあるために、宗派という縦社会が強固に継続しているようにも思えるのだ。
 
 お釈迦さまは、亡くなるまえにアーナンダにおっしゃった。「自己と法とを拠り所とせよ、けっしてそれ以外のものを拠り所にしてはならない」と。世に「自燈明、法燈明」と呼びならわされている逸話である。
 このことに驚くのは私だけではないだろう。つまりお釈迦さまは、けっして自分の教えを拠り所にしなさいとはおっしゃらなかったのだ。ここでの「法」とは、宇宙を通貫する真理と考えていいだろう。中村元先生は『釈尊の生涯』という著書のなかで、釈尊はこの言葉で自らが教団の指導者であることさえも否定したのだと受けとめる。そしてこの時点では、仏教さえも存在してはいないとおっしゃっるのだ。
 たしかに「仏教」という枠組みを作り、整合性をもたせた上で「外道」という呼び方を作ったりしたのも、後世の経典作者たちである。我が宗派でもお通夜のときなど「邪魔外道」という言葉を口にするのだが、私はどうもそのとき胸が痛む。外道とは「六師外道」なのか今なら他の宗派なのか知らないが、少なくともお釈迦さまは外道と呼ばれたサンジャヤやアシタ仙人からも多くのことを学んだし、私だってほかの宗派の経典からいろいろ学ばせていただいた。感謝こそすれ、外道呼ばわりするつもりは毛頭ないのである。
 お釈迦さまのおっしゃるように、さまざまなことを学ぶ自己と、まだ知り得ない大いなる真理だけにこだわるべきなのだと思う。宗派とは、あくまでもそこに至るための方便としての道であり、ことによると、仏教という枠組みだって方便なのかもしれない。

 平安時代には、朝起きると「南無妙法蓮華経」」と唱え、夜寝るまえには「南無阿弥陀仏」と唱える人々がじっさいいたらしい。なるほどそれは理に適っている気がする。前者は朝の意欲をかきたてる音だし、後者を唱えればその日一日が肯定されたような安らかさに包まれるのだろう。これに、例えばお釈迦さまと同じように坐禅もし、また時にはマントラなども唱えれば完璧である。つまり一旦分断されて工夫された各宗派の良さが、一人の人間において再び総合されるのだ。
 しかしそうはいっても、これはなかなか大変なことだ。それが大変だからこそ、各宗祖たちは分断して奇形にしてでも強調すべき点をそれぞれはっきりさせたのだろう。
 雑居と雑種とは違う。現在の日本仏教の、いや、日本での宗教の在り方はいわば雑居状態といえるだろう。心のいろんな幅がさまざまな道具立てによって満たされ、一貫性はないけれど、とても寛容で楽しい気分にしてくれる。社会そのものにこうした寛容さが失われつつある現在、これはとても貴重なことだと思える。
 しかし一方、私が本当に望むのは、自分だけの雑種の創生である。雑種というと、おそらく純血みたいな反対語が浮かぶかもしれないが、なにを純血と措定するかは人間の勝手な思惑である。しかも雑種は純血よりも生命力に溢れ、適応力も増している。なにより雑種は雑居と違って、完璧に一つのまとまりをもった生命体なのである。
 一人ひとりのなかで仏教がそれだけ咀嚼され、雑種として独立するということは簡単なことではない。精神が汗をかくほどの創造的作業だろう。また雑種の完成は、ときには新興宗教の出現にもつながる。だから、雑種になりきれない雑居、あるいは雑居を残した雑種くらいがちょうどいいのかもしれない。これこそが正しいと思いこんで新興宗教を立ち上げ、信者を得ようというのは、雑種と自認する遊び心に反するものだからである。日本仏教の各宗派も、歴史的に学べばすべて雑種であることが判明する。そのことを意識しているからこそ、仲良く同居もできるのかもしれない。

 自分なりの雑種を考える際に、胎盤の機能はとても参考になる。
 ご存じのように女性は自分と血液型の違う子供を胎内で育てることができるわけだが、これができるのは胎盤のお陰だ。通常違った血液型の多くは、混じると凝固する。しかし胎盤が型として現れる個別の部分を通さず、胎児と共有する成分だけを通すため、母親は異物としての子供を育てることが可能になるのである。
 とりあえず、この共通する部分を学ぶことも重要だが、さらに個別な部分を一般化して考えることがもっと大事だと思う。それは例えばお茶の世界で、出された茶碗を何回どちらに廻すのか、ということでも云える。何回であろうと、とにかく出してくださった人への礼儀から正面を避けることが大事なのだ、と判れば、あとはその心を自分なりに示せばいいというということだ。
 私はこの春、『アミターバ』(新潮社)という作品を上梓したが、それも死という現象を、宗教色を抜いて一般化して描きたかったのだ。そこでは「阿弥陀如来」も「無量光明」という現象に還元されている。要は各宗派で祀る仏像なども、日本人すべての財産として一度「はたらき」に還元してみたらいいと思う。不動明王も大日如来も薬師如来もさまざまな菩薩たちも、いわば我々が本来もっている能力の化身として見直すのである。そうすれば例えば日蓮宗独特の久遠の釈迦仏だって、方便の重要さを説いていると気づくだろう。なにしろお釈迦さまが死んだのも、我々を油断させないための方便だというのだから。

 思えばすべての宗教は方便なのだ。方便とは「ウパーヤ」の訳、つまり真理に近づく道のことだ。むろんその自覚さえあれば、どれかの道をしっかり歩むのは素晴らしいことだ。
 いやむしろ、自分で雑種を仕上げようなんて思っていたら、一生かかってもできないかもしれない。それに、頭であれこれ考えているだけでは仏教ではあっても仏道にならない。あくまでも実践的な観点から、私は「仏道」と呼びたいのだ。
 お茶で流派によって「どちらに何回」と決まっているのも、べつに個別性を出したいからばかりではない。とにかくそう決めてあることを繰り返すことで、人の行動に安心感と美しさが滲む。そのことのほうが、お茶でも仏道でも大事なのである。
 よ~く各宗派を眺めわたし、まずは一歩を踏みだしてほしい。むろんその際に、自分の家の菩提寺や実家の宗派は気にしてほしい。私が見るかぎり、すべての既成仏教宗派にはそれなりの素晴らしさがある。まずはご縁のある宗派を学び、実践しながら他の宗派の良さも取り込んでいったらどうだろう。

 日本の仏教はどの宗派も、「定(じょう)」を大切にする。「戒」「定」「慧」が仏教の三学だが、禅定のなかで戒も智慧も実現すると考える宗派が多い。定とは別な言葉でいえば「三昧」のことだ。
 最近はこの「三昧」状態における脳神経学的な研究もずいぶん進んできた。脳波がα波からθ波に移行するのはつとに云われていることだが、『脳はいかにして<神>を見るか』(2003、PHP出版)によれば、例えばイエスなど、一つのイメージに収斂していくキリスト教の瞑想は、仏教的三昧よりも瞑想が浅いのではないかという。
 仏教的「行」で三昧になったいわゆる「無心」では、もう宗派も教義も、あまつさえ自己自身もなくなってしまうはずだと言うのだ。つまり宗派という現実的方便から入っても、「定」がとことん深まりさえすれば宗派という枠を超えた広々とした地平に出るということだ。窓から射し込む光を、この窓の光とあの窓の光で比べるよりも、窓の外の光そのものを感じるべきだろう。それこそが、お釈迦さまが拠り所にせよとおっつしゃった「法」なのである。
 この光としての「法」を遠くに見据えつつ、現実に真摯に向き合いながら方便としての道を歩む。それが仏道だろう。「反対語辞典」には道の反対語は「路地」とあるが、行き止まるのが路地、どこまでも終わらないのが道なのである。

2003/11 大法輪

関連リンク

書籍情報



題名
私だけの仏教 あなただけの仏教入門
出版社
講談社
出版社URL
発売日
2003/5/22
価格
880円(税別)
ISBN
9784062721974
Cコード
ページ
208
当サイトURL


題名
私だけの仏教 あなただけの仏教入門
出版社
PHP研究所
出版社URL
発売日
2014/3/3
価格
552円(税別)
ISBN
9784569761121
Cコード
ページ
196
当サイトURL

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