非常識の熟成について

 たしか井上靖さんだったと思う。小説を書く人間は、なにより常識人である、というようなことをどこかで仰っていた記憶がある。
 確かに多くの人々が書かれた内容に想像を膨らませ、従(つ)いてきてくれるためには、その人々の心性に対する基本的な理解がなければならないだろう。それはとりもなおさず自身の心性への理解でもあるわけだから、井上靖さんが仰る「常識」とは、もしかすると「自己への深い理解」と言い換えてもかまわないのかもしれない。
 しかしいわゆる常識的なことばかり書かれていては、小説は面白くない。だから常識人とは云っても、世間的常識的にものを考える人という意味ではないだろう。
 モーパッサンの創作のうえでの師匠はフローベールだったわけだが、フローベールは常々表現における独創性を強調し、どんな些細なものにも未知なる部分を発見し、世界に二つとない人なり事物なりを簡潔に表現するよう、モーパッサンに指導したという。
 これは、言ってみれば「非常識」の勧めだが、そう言ってしまうと先の井上さんの物言いと矛盾するようにも見える。しかし私には、この一見矛盾するような二人の主張の合流点に、小説の秘密はあるような気がするのである。
 たしかにフローベールの言うように、独創性は必要なものだし、個々の人間が深く物事を見つめれば、独創的にならないことなどあり得ないとも思う。しかし、そのちょっと変わった見方が、その人にとっての「常識」にならないうちは、文章の力とはならないのだと思う。
 内田百閒の小説などを読んでいるとよく感じるのだが、あまりにも常識から懸け離れた時空間がこの作者にはある。そう思う。しかしそれでも読まされてしまうのは、それが作者にとって当然のことのように語られるからだ。いわば常識とずれた独創的な見方に慣れ、自分にとってそれが独創的でもなんでもなく思えるようになったとき、初めて人は他人に読んでもらうべきものを書き始めるのかもしれない。
 「才能とは、ながい期間にわたっての忍耐にほかならない」
 これはフローベールの言葉かモーパッサンの言葉かはっきりしないのだが、いずれにしても、人は独創的非常識を熟成させて自らの常識とするまでの期間、けっこう辛い時間も過ごさなくてはならないものかもしれない。
 当然のことだが、小説は、だから私にとっての常識で書くのである。

2004年 守山文芸 第9号掲載

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