最近はウォーキングがブームと云っていいだろう。歩くことが目的で歩いている人をよく見かける。
以前はジョギングが多かったが、ジョギングの発案者がジョギング中に亡くなったこともあり、代わって流行っているのがウォーキングということだろう。
歩くことは筋力のみならず内臓も鍛え、さらには総合的な判断力を司る前頭前野も刺激すると云われる。老齢の方にはもってこいの老化防止、むろん子供にとっても、基本的な体力と骨格を作る重要な運動と云えるだろう。
田村三十三観音という巡礼コースがあるのだが、じつはこれ、江戸時代に私が住む福聚寺の住職が歩いて設定したものだそうだ。拓道和尚という方だが、計算してみるとそれは和尚が七十五歳くらいのとき。遠くは葛尾村の観音さままで含まれるのだが、いったい何キロを歩いて廻ったものだろう。まっすぐそこまで行ったとしても数十キロはある。ともあれこの和尚が亡くなったのは百十五歳、歴代住職で最も長生きだった。
よく歩いた人が長生きした例は最近も体験している。檀家さんのお爺ちゃんだが、百五歳で亡くなった。この人は若い頃、三春から移あたりまでリヤカーを引いて野菜を売りに行っていたそうだ。およそ三十キロくらいだろうか。しかもかなりの高齢になるまでお寺にも数キロの道程を歩いてやってきた。息子さんもそうしているところを見ると、どうもその家の人々は歩くことを家訓のように大事に考えているようなのだ。
考えてみれば、お釈迦さまも歩くことをとても大事にされた。お釈迦さまが、というより、それはインド一般の当時の考え方だが、人生の最後は「遊行」のうちに終える、という美学があったのである。
旅には余計なものを持てない。そうして人は人生で所有してしまった様々な余計なものを次第に手放し、最後は全てを手放して死に至るのである。
歩くことは、そのことじたいに意識を集中していくと、思いを手放すことにもなる。上座部仏教の時代から「歩行瞑想」というのが盛んで、仏道の修行者は瞑想の手段としても歩くことを重視した。簡単に云えば、体を動かすことによるからだ内部の感覚に意識を集中する。たとえば脚を「あげる」「おろす」「ふみ」「しめる」「あげる」というように、最初は言葉で行為を受けとめ、やがてその言葉をだんだん消していく。慣れると、一連の内部感覚を流動のままに受け取ることができるようになる。これも立派な瞑想なのである。(詳しくは『実践!元気禅のすすめ』宝島社を参照してください)
現在、世の中のすべてはお金の原理で動いているかに見える。資本主義は「自由投資主義」に移行したとする論客もいるくらいだ。市町村の合併も、戦争も、むろん我々の日々の暮らしも、みなお金の原理で動かされている気がするのだが、そんな中で、歩くことは如何なる価値があるのか。
すぐにはその価値が思い浮かばないからこそ、そこには無尽蔵の価値があるとは思えないだろうか。二本脚で立つことでヒトになった我々は、おそらく歩くことでその脳もからだも保ってきたのだと思う。ただ歩くだけで、時間もゆるやかに流れだし、空間も広くなる。
天高く、目的もなく歩くには最高の季節になる。
2004/10/10 福島民報