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名長篇 新潮が生んだ40作

川端康成「眠れる美女」

 『眠れる美女』は、『みずうみ』の六年後、川端氏六十歳のときに書かれた。わざわざ『みずうみ』の六年後、と申し上げたのは、そこに『みずうみ』で見せられた魔界の深まりを感じたからだ。
 主人公は江口という六十七歳の男性。妻もいて、三人の娘をすでに嫁にだした。自らを老人と感じながらも、まだ男である江口が、本来は男でなくなった老人のための奇妙な宿に通いつづける話である。
 いったい何という仕掛けだろう。若い女が全裸で眠ったままのその宿で、江口は初め視覚や嗅覚や聴覚、いや五感のすべてと言ってもいい刺激から、次第に自分の無意識に這入りこんでいく。六人の裸の美女たちによって次々目覚めさせられる古い記憶たちは、物語に柔らかく膨らみを与え、川端氏らしいふくよかな作品世界に仕立てられていく。
 しかしこの作品はそうした蠱惑的な設定のなかで、じつはひたすら心の奥底の漆黒の闇へと向かう旅の記録である。
 二人目の妖婦じみた娘のときにすでに芽生えていた「禁」を犯す欲求は、四人目では母の記憶まで巻き込んで燻りつづけ、やがて最後に「黒い娘」と「やさしい娘」とに同時に添い寝されることで爆発しかける。
 宿の女中との会話に、江口は「僕は幽霊としみじみ話したいね」と呟く。それはその宿で死んでしまった老人の幽霊のことと見えるが、そうではない。
「幽霊は僕のなかにもいるな。その君のなかにもいるな」。
つまり、幽霊とは、人間の心の深奥に棲む魔物なのである。
 女は無限だ、と江口は思う。それはむろん、女によって引き出される自分のなかの魔物の無限さでもある。
 二人の全く違った女、「野蛮」と「やさしさ」とに挟まれ、江口に乗り移った川端氏は、女中が「悪はありません」と言う宿で、「だいぶん悪になって来たぞ」と思いながら悪をなそうとする。黒い野蛮を想わせる娘を見て、江口は「いのちそのものかな」と呟き、また「生の魔力をさずけろよ」と思う。そしてその力で、「やさしい娘」を「自分の一生の最後の女」にしようとするのである。
 仏教でいう阿羅耶識が、つまり幽霊が漆黒の口をあけたような結末は、ここには書かないでおこう。
ただただ川端康成という人の、果敢なる旅に敬意を表するのみである。
 作中著者は江口に思わせる。「どのように非人間の世界も習わしによって人間世界となる」。
それはそうかもしれないが、こんな小説を書いてしまう人は、そういるもんじゃない。私は勇気と怯懦とを、双つながら感じるのである。

2004/12/02 新潮

タグ: 寄稿, 川端康成