幽玄に向かうとき

 幽玄といえば、お能を憶いだすかもしれない。幽は「かすか」とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のことだ。
 能や水墨画の特徴としての認識が強いかもしれないが、これは明らかに禅に由来している。秋彼岸にあたり、そのことについて書いてみたい。秋彼岸にどうして幽玄なのかと訝るかもしれないが、じつは深く関係しているのである。
 お彼岸には、昼と夜の長さが同じになり、太陽が真東から出て真西に沈む。つまり最大の陰と陽が拮抗する。拮抗するといっても、春の彼岸はそこから陽優位になるが、秋はお彼岸を境にして陰が増長しはじめる。その違いは大きい。冬が玄冬と呼ばれるように、春の青から夏の朱に至り、秋の白を通過してやがてすべてが大地のような玄に収斂していく。そうして目に見える地上の風物は「幽か」になっていく。つまり秋の彼岸こそ、拮抗しながら幽玄に向かいはじめるときなのである。
 陰と陽については誤解も多いので整理しておきたい。
 基本的には動いて枝分かれしようというはたらきが陽、まとまって包み込もうというはたらきが陰だが、これはさまざまなレベルで複雑に絡み合ってエネルギーを生みだす。たとえば植物では、芽が出て枝が出て外に発散し、花を咲かせてアピールするといったはたらきは陽、根のように包み込んで吸収するはたらきは陰と云えるが、むろんどんな動きにも陰陽の双方が伴っている。双方伴うことでエネルギーが産みだされるのである。
 ダーウィンに先立って植物研究に没頭したゲーテは、イタリア滞在中に自分用の植物園を作り、そこでの観察から、植物の動きのなかに男性性と女性性を見出した。ぐいぐい直線的に伸びる男性的生長の時期と、とくに生殖期が近いときのような、螺旋的生長の時期が交互に訪れるという。蔓の動きは女性性の典型だろう。
 しかし中国で云う陰と陽は、単純にこの男女性に置き換えることもできない。男性の中にも女性ホルモンはあるのだし、その逆も云える。つまり陰陽とは、男女や植物の雌雄に限らず、命あるすべてのものを動かすもっと原理的なはたらきなのである。
 太極図のように渦巻く陰陽のうねりは、どんな小さなレベルの生命単位にも見られる。そしてそれは、太陽と月という、陰陽の最大のファクターだけでなく、この宇宙全体の微妙な影響を受けつづけている。医化学の祖といわれるパラケルススは「花々がどのように惑星たちの運行に従い、月の相に従い、太陽の循環や遠い星たちに感応して花弁を開くか、気づきなさい」と言ったが、まだまだそれは科学が追究しきれない、全体性という霧の中の出来事なのである。
 しかし我々の先祖たちは、もしかするとお彼岸に植物たちに起きる大きな変化に気づいたのかもしれない。なぜかお彼岸界隈にはどんどん新芽が出て伸びる。人間にも、同じように大きな変化が起こりやすいのではないか……。あるいは何人かは、その変化を実際に感じ取ったのではなかっただろうか。
 お彼岸に真西に沈む夕日を見つめながら、昔の中国の人々は浄土を観想した。観想とは、ある特定のヴィジョンを頭の中にありありと描くことだが、閑かに坐して観想するというのは、明らかに陰を増長させる行為である。
 植物の枝葉にあたる手足を収め、根を生やすように坐禅して、体幹の幽かな動きだけを味わう。陰が充実したその状態こそ、生命力が充実した状態でもある。
 陰気陽気という言葉のせいだろう、なかには陽気のほうがいいものと思っている方も多いようだが、陰陽はまったく対等であることを強調しておきたい。むしろ、陰が充実して初めて陽が活かせると考えたほうがいいだろう。
 『荘子』には、「夫れ陽を以て満てりと為さば、孔だ揚がりて、采色定まらず」という言葉が、孔子の科白として出てくる(人間世篇)。「陽を以て」という部分は、福永光司先生によれば「うわべをつくろって」と訳される。つまり陽が強いと、なんだか自分でも元気なのかと錯覚し、意気ばかり盛んになるが、顔色も定まらない。そういう人の言葉には、人は説得されないのだと、話は続くのである。
 たしかに人は、一瞬勢いや華やかさに押されそうになるかもしれないが、本当に説得され、自ら動こうと思うのは、もっと根のある言葉や態度なのだろう。
 植物が安心して花咲くために根を充実させるように、人も坐禅し、観想することで陰を充実させる。
 ところが頭に特定のヴィジョンを描き続けることはとても難しい。頭から言葉を消し、そんなヴィジョンを観想し、念じつづけることを当初は「観念」と呼んだ。親鸞の教説をまとめた『歎異抄』には「観念成就のさとり」という表現がでてくる。また法然の『一枚起請文』には「もろこし(唐)わがてう(朝)に、もろもろの智者たちのさた(沙汰)し申さるる、観念の念にも非ず」とあるが、これこそ口称念仏のことだ。つまり観念することがあまりに難しいから、念仏はやがて口称念仏に移っていくのである。
 しかし浄土という特定のヴィジョンを描かなくとも、夕日を見つめながら坐禅することには意義がある。
 日はしだいに落ち、すべての色を含みながら玄に近づいていく。あたりの気配は次第に幽かになるが、それはなくなるのではなく、どんどん奥深くなっていくだけだ。
 もしかするとそれは、坐禅する人の脳で起こっていることとも通じ合うだろう。浮薄な言葉や騒がしさが遠ざかり、やがて言葉からも離れて「自分」と思っていた輪郭も崩れていく。そのまま立ち上がって舞えば能になる。また水墨画の余白も、そうして充実した陰が巧まずに表現された結果だろう。
 自然も、その分身である自分も、そこではどんどん幽玄になっていくのである。
 秋のお彼岸の頃ならこうした行為が尚更ふさわしい。世界ぜんたいが、「幽」と「玄」とに向かってうねりだすのだ。
 幽玄に向かうことを怖がってはいけない。
 もっと奥へ行ってみたいと、人は思った。それを「おくゆかしさ」と云うのである。
 陰が充実すると奥ゆかしくなる。
 それは充実した体幹による動きの静かさも関係しているが、脳機能の影響もあるのだと思う。言語や計算、分析、つまり理知に関わる左脳はどちらかといえば陽、それらを妄想として収めたときに活性化する右脳は、音楽や映像や空間認識など、いつも全体性に関わる陰の仕事をしている。坐禅するとからだの陰も優勢になるが、脳内でも陰の機能がどんどん充実してくるのである。
 左脳と右脳は西洋的に云えば「知と愛」、仏教的に考えれば「智慧と慈悲」にあたるだろう。むろん仏教的智慧は必ずしも分析的であるわけではない。むしろ朝日的といったほうがいいかもしれない。慈悲は夕日である。
 夕日を見つめ、坐禅することで、だから人は奥ゆかしく慈悲ふかくなる。
 「お彼岸ってなんですか」と訊かれると、よく私は「お盆は向こうから戻ってきますけど、お彼岸はこっちから行ってみるんですよ」と答える。その意味するところは、以上のようなことだ。つまり、自ら坐って幽玄に向かい、仏さまのような奥ゆかしさと慈悲とを体現することなのである。
 さあ、今度のお彼岸には是非とも幽玄に向かい、今よりもっと奥ゆかしくなっていただきたい。
 ちなみに私は幽玄でも玄幽でもなく、玄侑です。

2005/09 臨済会報掲載

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