うゐの奥山 第7回

偉くなった私たち

 昔から、子どもが生まれる直前の夫の様子は、サマにならないものと決まっていた。痛みも実感もないのに、まもなく自分の境遇にとてつもない変化が起こる。これほど落ち着かない時間が男の人生に他にあるだろうか。
 生まれてくるのが男か女か、いや、五体満足かどうかも分からない。しかも場合によっては「貧乏人の子だくさん」で、家庭の経済を更に圧迫するかもしれないのである。
 しかし昔の人は偉かった。「案ずるより産むが易し」と言い切り、「神さまの思し召し」としてそれを受けとめた。どんなことが起こってもそれが「自然」なのだと受け容れる覚悟があったのだろう。
 しかし最近はどうも違ってきた。
 出生前診断で羊水検査をすれば、染色体異常まで分かる。男女の識別も簡単にできるようになっているし、更に今度は、胎児がダウン症であるかどうかも、血液検査だけで分かるようになったという。しかしいったい、知ってどうするのだろう?
 どうするかって、選別するに決まってるじゃないですか、という声が聞こえてくる。……どこから?
 けっしてそれはかつての親たちからではない。親たちは最も逞しく自然を受けとめる能力を今も保持しているし、特にダウン症の子どもを育てた親など、彼らに特有の純粋さ豊かさを一番よく知っている。私も接する機会がときどきあるが、大袈裟に言えば彼らを通して「神さまの存在」を感じてしまうことさえある。
 ならばさっきの声はどこから聞こえたのか、というと、そうした技術を商品として開発し、新たな親たちに売ろうとする人々からである。
 彼らは、冒頭の男たちの不安を少しでも解消してあげたいと思ったのだろうか。いや、おそらくそうではあるまい。学問や医療さえ市場経済の枠組みに入れ込まれてしまった今、「売れない研究」は続けられないし、売れるなら倫理も道徳も省みられない。できてしまった技術なら、せいぜい販促に励もうということではないか。
 日本産科婦人科学会は、さすがにこの技術について「慎重に取り扱うように」という声明を出したが、「焼け石に水」の感を拭えない。
 一昨年度(平成二十二年)の全国中絶件数は、二十一万人を超えている。私が水子供養を引き受けている産院でも、中絶を依頼される胎児の約半数は正式な夫婦間の子どもだという。
 本当は、少子化など起こっていないのではないか。
 医療技術の進歩により、乳幼児死亡率は世界一低い日本だが、その技術がもっと進んで胎児の命を奪っていく。
 昔の人は偉かったが、今の人はもっと偉くなったようだ。なにしろ産土(うぶすな)の神をよそに、命の選別をしようというのだから。

2012/10/31 東京新聞ほか掲載

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