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うゐの奥山 第13回

いまいちど

 奄美大島の話題、第二弾である。
 前回、島の名物である「鶏飯」のことに少しだけ触れたが、これがじつに旨い。しかも、「鶏飯」という名前から勝手に想像したものとはかなり違う代物なので、是非ご紹介したい。
 例のファックスを送ってくれた料理長に「今夜は鶏飯にしましょう」と朝言われ、夕方早々にテーブルについて待っていると、やがて出てきたのはお皿に盛られたたくさんの具とご飯、そしてガステーブルに載せられた鍋であった。
 ご飯は普通の白飯、お皿には鶏のササミの細切りのほか、錦糸玉子や椎茸、刻みネギなどがきちんと分けて盛られている。奄美独特のパパイアの漬け物と、香りづけのために旦柑の皮の細切りが添えられていたが、これは他の漬け物や柚子などで代用できると思う。
 問題は鍋の中身なのだが、これがどうも秘密の鶏スープなのである。やや冷え加減のご飯に具を載せ、そこに熱くした透明なスープを注ぎ、お茶漬け風にいただくのだ。
 じつはそれまでに、お刺身や天ぷらなどもいただき、黒糖焼酎のお湯割りも飲んでいたから、これは仕上げである。ところがサラサラとどんどん入り、思わず「お代わり」してしまった。
 すると料理長、昭和四十三年に現在の天皇皇后両陛下が島をお訪ねになったときのエピソードをご披露。あまりの美味しさにもっといただきたいと思われた美智子妃殿下は、つつましく「いまいちど」とおっしゃったらしい。やはり高貴な方々は、「お代わり」などという庶民の言葉はお使いにならないというのである。
 私は鶏飯のついでに、当地では「泉重千代公」が愛飲したという黒糖焼酎を「いまいちど」お願いし、都合何度ほどお願いしたことか。
 翌朝はしかし気分も爽快で、レンタカーでマングローブの森まで出かけた。そこでカヌーに乗って楽しむつもりであった。
 係員からの説明を受け、まずは自分で漕いでみましょうと、川面を滑りだした途端のことである。どうした加減かカヌーが流れに垂直になり、あっという間に転覆してしまったのである。
 私はびしょ濡れのまま川底に立ち、思わず心の底から「いまいちど」と呟いた。昨夜聞いた皇后陛下のお言葉が、清新な気分で一から出直せるようで、とても気に入っていたのである。
 しかし覆水盆に返らず。濡れた衣類はすぐには乾かない。南の島だが今は二月、気温は十五、六度か。しかも清新な風が吹いて体温を奪っていく。女房も他の参加者も、ひとしきり笑ったあとは、自分のカヌーの操作で手一杯だから同情しているヒマもない。私は微かな震えに気づかれないよう無理に快活に振る舞い、乗り直して漕ぎながら、あちこちに咲く奄美の緋寒櫻を愛でるフリをしていたのである。

2013/04/06 東京新聞ほか

書籍情報



題名
なりゆきを生きる 「うゐの奥山」つづら折れ
著者・共著者
出版社
筑摩書房
出版社URL
発売日
2020-05-09
価格
1600円(税別)※価格は刊行時のものです。
ISBN
9784480815538
Cコード
C0095
ページ
240
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