何年かまえ、ヒトゲノムつまり人間の遺伝子の解読に、各国の学者さんたちが必死になっていた。皆、それが分かったら人間の設計図が分かるのだと、ずいぶん期待しながら待っていたような気がする。どうやら三十億の塩基配列はすべて解読され、いわば遺伝子の地図ができあがったらしいのだが、いっこうにニュースにならない。いったいどうしたことかと思っていたら、つい最近その理由が分かった。養老先生の『「自分」の壁』(新潮新書)に、驚くべきことが書いてあったのでご紹介したい。
解読の結果分かったことは、期待された「タンパク質合成」に関与するものは全体の一・五%にすぎず、残りの九十八・五%は、じつはなにをしているのかよく分からない、というのである。しかも驚いたことに、約三十%ほどの遺伝子は、もともとは外部のウィルスだったらしい。解読の偉業が新聞の一面トップで報じられなかったのも頷けるだろう。
むろん、ウィルスとはいっても病原体ばかりではなく、人間と共生できるものがたくさんあるらしい。その昔、人体とも呼べない頃に入り込み、お、ここは居心地がいいと、気に入って代々住み着いてしまった生き物が無数にいるということだろう。
じつはそのようなものとして、一九六十年代にアメリカのリン・マーギュリスは、細胞内のミトコンドリアを「発見」した。そして彼女は、ダーウィンの『種の起源』に代表される「適者生存」の理論に反対し、「共生」こそが生物進化の原動力だと訴えたのである。
このマーギュリスによる論文は、学術誌への掲載を十七回も拒否されたというから驚く。進化論への信仰という障碍と、アメリカ人がよほど「共生」嫌いなせいだと、養老先生はおっしゃるのだが、くじけない彼女の信念にも頭が下がる。
ウィルスのことだけでも驚くべき話だが、養老先生はさらに青虫と蝶の関係もそうではないか、という。ヤゴからトンボになる場合はある程度元の身が受け継がれるが、青虫から蝶への移行(完全変態)では前身が完全に破棄される。だからあれは、別な生き物の共生ではないか、とおっしゃるのだ。蛹の間に入れ替わるのだろう。
そう言われてみれば、ヘルペスがじつは昔罹患した水疱瘡の菌による病気だというのも、なんとなく納得できる。また、以前から不思議に思っていたのだが、なぜか遺体にはどんな状況で亡くなっても蛆が湧く。いったい蠅はいつ、卵を産んだのかと訝しかったのだが、そうではないのかもしれない。
人間に限らず生き物は、もしかするとこの世では共生できない生き物まで抱え込んだまま、平気で生きているのではないか。生きるとは、なんと凄いことなのか。
2014/08/31 東京新聞ほか