立秋は二十四節気の一つで、今年は八月八日だった。この原稿は八日の晩に書いているのだが、今朝も日没後も確かに風が変わったと感じ、調べてみたら今日がまさに立秋だったのである。
立秋を境に、朝吹く風だけでなく、空もスッと高くなった気がする。古来立秋までは暑中見舞い、その後は残暑見舞いと書き分けるわけだが、そうした古人の鋭敏な感性に敬服する。
それにしても、今年は猛暑日が続いた。現時点でも一週間で二十五人が亡くなっており、救急搬送された人は一万二千人ちかい。この文章の掲載日には間違いなくもっと増えていることだろう。
さて、立秋のあとの残暑にやってくるのが月遅れのお盆だが、お盆には「地獄の釜の蓋も開く」と言われる。これはどういう意味なのだろう。
すべての生き物を平等に慈しむのが理想だと考える人々から見れば、日常の安寧は我々の命に好都合なものだけを「依怙贔屓」することで保たれているように思える。たとえば蚊やゴキブリ、ダニやアブ、梅毒スピロヘータや様々な細菌など、彼らに悪気があるわけではないのだが、不都合なので遭った途端に多くの人が殺生に及ぶ。本当は、そのような殺生をする者こそ地獄行きなはずだが、古人は我々が勝手な都合で彼らを地獄に押し込めていると見たのである。
故なく、人間の都合だけで「地獄の釜の中」に押し込められている無数の命を、せめてお盆だけは解放しよう、釜の蓋を開いてあげよう、それが期間限定で博愛を目指すお盆の心意気である。
しかし都市部のヒートアイランド現象を見るにつけ、地獄の釜の蓋とは家々のドアのことではないかと思えてくる。内部を冷やすために外部に熱を放出し、会社や工場も同じ理屈で内部だけを調える。それぞれが、内部だけ極楽にするために、堅固な蓋の外に猛烈な炎熱地獄を作っていくのである。
奇しくも立秋の朝、三人の年老いた姉妹が、東京都板橋区の民家で死亡して見つかった。熱中症らしいが、今は地獄の釜の蓋を開けることじたい、命取りになるということだろうか。
思えば軍備も、同じような理屈で拡大してきた。お盆に各家々が秋を感じ、一斉にクーラーを停めるのは無理だとしても、各国一斉に「一、二、三」で軍備を放棄することはできないものだろうか。
「秋立ちぬ」という言葉の気高い響きに、私はそんな理想を思い描く。広島と長崎の「原爆の日」がいつも立秋を挟み、月遅れのお盆の中日が終戦記念日に重なることも、仏教徒には重大な意味を孕んでいるように思えるのである。
仲間の和尚に「今日は秋風感じたよね」と言うと、「台風の影響じゃないですか」との返事。それはそうかもしれないけれど、たとえそうであったとしても、今日は紛れもなく立秋でまもなくお盆なのだ。
2015/09/05 東京新聞ほか