先日、講演で福岡へ出かけた折に、女房と志賀島(しかのしま)まで行ってきた。全国でも珍しい砂州による陸繋島(りくけいとう)だが、今では「海の中道」という立派な道路で繋(つな)がり、潮の満ち干に関係なく車で渡れる。
志賀島といえば金印が発見されたことで有名だが、その歴史はじつに古い。『古事記』や『日本書紀』には綿津見神(わだつみのかみ)の祭主たる阿曇(あずみ)氏についての記述があり、彼らの本拠地がこの一帯だったらしい。やがて阿曇族は日本各地に拡散し、一説では、長野県の安曇野をはじめ、滋賀県の安曇(あど)、愛知県の渥美(あつみ・半島)、静岡県の熱海、山形県の温海(あつみ)、そして石川県の志賀町にまで移り住んだと言われる。島には綿津見神社の総本社とされる立派な志賀海(しかうみ)神社があり、この神社では古来神事に際して「君が代」を詠(うた)う。「君が代」発祥の地ではないかとの説もあり、またいわゆる元寇(げんこう・弘安の役)の戦場にもなった島だから、じつに歴史的興味が尽きないのである。
しかし今回出かけたのはそういった興味ではなく、この島にある荘厳寺(しょうごんじ)さんを訪ねるためだった。この島は平成十七年の三月、マグニチュード7の福岡県西方沖地震に遭った。震度6弱の島の被害は甚大で、周囲約十キロほどの志賀島循環線(県道542号線)は崖崩れや亀裂のため通行止めになり、荘厳寺さんの本堂も激しく損壊した。
そしてじつは東日本大震災の翌年の春、なんとか本堂の改修工事を終えた荘厳寺さんご夫妻が、うちの寺を訪ねて来られたのである。突然の来訪で、それまで面識もなかったのだが、震災を他人事(ひとごと)に思えない彼らの言葉は私や女房の心に響き、いつしか茶の間でお互いの苦労話までしていたのである。
当方も今回、突然に訪ねてみたのだが、岡の上に新築された立派な本堂の正面から覗くと、奥に人影が見えた。庫裏の玄関にまわって声を掛けると、おお、懐かしい和尚さんの顔……。恰度(ちょうど)世話人さんが来ていて、冒頭のこの島の歴史なども伺うことができた。本堂をご案内いただき、お茶をよばれ、あれこれ懐かしんでほどなくお暇(いとま)した。奥さんがお留守で逢(あ)えないことが心残りだったが、突然なのだし仕方がない。我々は世話人さんにも勧められ、そこから志賀海神社に向かい、ゆっくり参拝して再び参道を下ってきたのである。
するとさっきの世話人さんが参道の下にいて、すぐにお寺に電話を掛けてくれた。寺に戻った奥さんが我々を探しに神社まで来たが、見つけられずに諦めてお寺に戻ったというのである。奥さんは息を切らして再び駆けつけてくれた。名残を惜しんだ我々は、彼女に車に同乗してもらい、島の展望台まで案内していただいたのである。
島育ちの奥さんは、暗く沈んだタブの林と向かいの能古島(のこのしま)のシルエットを見下ろしながら、あっという間に幾層もの島の歴史を語ってくれた。古代も中世も含んだ志賀島の夜の始まりは、まさに「風流ここに至れり」。得がたい旅になった。
2016/01/09 東京新聞ほか