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天真を養う 第12回

修行の階梯





「十牛図」
陶山雅純摸 原本:狩野探幽筆
江戸時代
東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)


 「天真を養う」という言葉は不思議である。天真は以て生まれた命そのもの、だとすれば、あえて養うとはどういうことなのか。
 人生観はここで大きく二分される。つまり「ありのまま」を肯定する立場からは、余計な分別や感情を脱落すれば「そのまま」でいいわけだが、もう一つの立場からすれば、人は向上進歩するもの、瓦を磨いて鏡にすると揶揄されても、努力しつづけることが大事ということになる。
 禅の世界では、前者を「頓悟(とんご)」派、後者を「漸修(ぜんしゅう)」派などと呼ぶが、やがて両者は合流して「頓悟漸修」という考え方を生む。本来誰もが仏であること(本覚・ほんがく)は認めるものの、現実には迷っているのだし、迷える自己を破摧(はさい)して大悟しなくてはならない。それゆえ大悟までの流れを、宋の廓庵(かくあん)禅師は『十牛図』で示したのである。
 簡単に言えば、本来の自己を逃げてしまった牛と見做し、それに気づき(「尋牛」じんぎゅう・第一図)、足跡を見つけ(「見跡」けんせき・第二図)、とうとう牛の姿を垣間見(「見牛」けんぎゅう・第三図)、追いかけて捕まえ(「得牛」とくぎゅう・第四図)、手なづけて飼い慣らし(「牧牛」ぼくぎゅう・第五図)、ようやく牛の背に騎(の)って家に帰ってゆくのである(「騎牛帰家」きぎゅうきか・第六図)。
 第六図に当たるこの絵では、すっかり牛(本来の自己)に馴染んだ少年が、その背で安らぎ、笛を吹いている。廓庵禅師の書いた「序」によれば、吹いているのは童歌(児童の野曲)、誰が呼ぼうとも振り返らず、引きとめようとも留まることはない、とある。また「頌」には、笛の音の一拍一音に無窮の心が宿っているのだが、真にわかりあった相手には、わざわざこの気持ちを告げることもあるまい、という。これこそ天真に還った深い喜びの讃歌である。
 本来の自己が、この自分の他に存在するわけではない。だから第七図以降に牛の姿はなく、(「忘牛存人」ぼうぎゅうぞんじん・第七図)、(「人牛倶忘」じんぎゅうぐぼう・第八図)と心境が深まってゆく。第八図が単なる一円相なのは、自己がすっかり溶融した状態、樵なら樵、漁夫なら漁夫の仕事に没頭していることだろう。(「返本還源」へんぽんげんげん・第九図)ではその眼に「ありのまま」の自然が戻る。これまで見ていたものは、単に見たいものであったことに気づくのだ。道元禅師の「眼横鼻直(げんのうびちょく)」と同じ主旨である。
 そして最後の図(「入鄽垂手」にってんすいしゅ・第十図)にはさっきまでの少年がおらず、布袋和尚と別な少年が向き合っている。じつは悟った少年は布袋和尚に変身し、今度は救済者側に立って悩める別な少年に対峙するのである。してみれば螺旋階段を上るようなもの。個人が頓悟しながら漸修の階段を上るだけでなく、悩める人に手を差し伸べていく。
 聖徳太子は「人の違(たが)うを怒らざれ」と言ったが、布袋和尚は「哄笑仏(こうしょうぶつ)」とも呼ばれ、人の違うを大笑いしてくれる。笑って人を励まし、サンタクロースのように謎の袋から惜しみなく施すのである。

2022/11/01 墨 2022年11・12月号(279号)(芸術新聞社)

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