慈雲飲光筆一行書
慈雲飲光
18世紀
紙本墨書 一幅 93.5×25.4
慶應義塾蔵(センチュリー赤尾コレクション)
第二回ではお茶に絡め、仙厓(せんがい)和尚の「無事」を扱ったが、今回の書はその大元である「無事是貴人(ぶじこれきにん)」。『臨済(りんざい)録』の言葉で、あの慈雲(じうん)尊者の筆である。軸全体からいかにも「無事」で「貴い」感じが漂ってくるのが凄い。
臨済禅師は「無事是れ貴人」に続けて「但だ造作(ぞうさ)すること莫れ。但だ是れ平常(びょうじょう)なれ」と言った。また別の箇所では「求心(ぐしん)やむ処即ち無事」とも語っている。つまり自分の外に仏を求めず、何の作為も用いず、ただあるがままであれと。それこそが無事であり、貴人だというのだが、どういうことだろう。
臨済禅師は師の黄檗に痛棒を三度喰らい、薦められた大愚の許に移ってからようやく気づく。問いかけ、打たれた自分こそ仏じゃないか、師の黄檗はそれを打つことで示してくれたのだと。それゆえ臨済の教えはまず自らを仏と「信」じることから始まる。修行者なら、それが信じられなければ病だという(病は不自信の処に在り)。
当然、なまくらな修行者に気易く「無事」などと胡座(あぐら)をかかれては困る。禅師だって必死に自己を究明したうえでの発言である。しかもこの言葉は、特に当時流行っていた「狐憑き坊主」(=這(こ)の一般(いっぱん)の精魅(せいみ))に惑乱されないようにと発せられた。求める法は心法のみ。菩提とか涅槃などの言葉も、狐憑きの悪霊と同列だから惑わされるな。心法が得られたらそれでお仕舞いだというのである。
私はなぜか、作家の野坂昭如(のさかあきゆき)氏に教わったことを憶いだす。「若いと、お肌の手入れみたいな文章の表面が気になるものだけど、大事なのは骨格ですよ。骨がしっかりしていれば、肌は自然に整ってきますよ」。特に何かの作品について言われたわけではなかったのだが、以後の私は小説を書くときいつもその言葉を頭の中に掲げた。
臨済禅師の「造作すること莫れ」も、そうした意味合いで受け取ってはどうだろう。心法を求める自らをしっかり信じていれば、外に何者を求める必要もなく、そのまま「無事」で貴人(=仏)なのである。
そうしてあらためて慈雲尊者の書を眺めると、いつも骨格が崩れず、些末な表皮などに囚われていないことを痛感する。
もともと真言宗で出家した慈雲飲光(おんこう)は、戒律や儒学、神道にも通じ、更に信濃に再行脚して曹洞宗の印可も受けた。各宗を一覧したあとは大元である梵語を学び、「正法律(真言律)」を打ち立てて簡易な「十善戒」を人々に弘めたのである。
慈雲尊者の「無事是貴人」は、そこまで徹底した挙げ句の安らぎと理解すべきだろう。最後に「貴人」のスペースが足りなそうに見えるが、腰を落とし、片脚が上がってバランスは整う。これは造作ではなく、骨格が崩れないがゆえの造作ない遊戯ではないか。
2024/11/01 墨 2024年11・12月号 291号(芸術新聞社)