書評
クリエイティヴな死の稽古が生の質を変える
(2007/05/29 週刊朝日掲載)
我々の経験する世界は、じつは「心」や「無意識」によって支えられ、成り立っている。それは仏教的常識というより、今や脳科学的な知見と云ってもいいだろう。脳内にインストールされているソフトに見合った体験しか、我々はしないので […]
心のそよかぜ
(2006/06/15 掲載)
土橋先生に初めてお目にかかったのは、ラジオの対談のためだった。長年、ガンを含む外科治療の第一線で活躍されていた先生が手術の現場を離れ、東京と大阪でガンについての相談室を開設されてから、まだそれほどは経っていなかったと思 […]
病魔に冒された科学者が辿り着いた「神なき信仰」
(2005/10/21 週刊ポスト 味わい本発見 この分野はこれを読め!掲載)
生命科学の先端を歩んでらした柳澤さんの原因不明の病苦については、以前から聞き及んでいた。 ようやく食器が洗えるようになった柳澤さんがいつかテレビに映っており、苦しさを訴えるのではなく、「食器の積み方を楽しむ」と仰って […]
禅体験の、新しい古典!
(2005/09/03 玄侑宗久公式サイト書き下ろし掲載)
なんという真摯な魂の記録、そしてなんという禅の本質的な表現であることだろう。それがこの『隻手の音なき声』(リース・グレーニング著、上田真而子訳、筑摩書房)を読みながら、何度も何度も私の胸に波のように押し寄せた思いであっ […]
月落ちて天を離れず
(2005/12/24 ロマンティック・デス-月を見よ、死を想え掲載)
なんと云えばいいのだろう。解説を書くためにこの本を読み終え、今は少し失語状態である。 たぶんその、大きな原因は、やはり驚きだと思う。世の中に、しかも日本に、こんなことを考えている人がいた……。そういう感じかもしれない […]
がんばらず、りきまずに生きて行く「縁起」の世界を説く
(2004/11/01 週刊ポスト掲載)
以前、「がんばる」という言葉は嫌いだ、と何かに書いたことがある。それは「がんばる」という言葉にはどうしても「りきむ」印象があり、そうすると却って力が出しきれないと思うからだ。しかしこの本に込められた熱い思いは他に言いよ […]
泥のなかに咲いた蓮たち
(2003年 文学界3月号掲載)
日本の仏教はすべて大乗仏教と括られるが、これは元々仏教サンガの周囲でその支持者であった在家の人々が教義も学びはじめ、仏塔や経典を守るだけでは飽き足りなくなって自分たちも包含した教えの拡張を願い、その結果できあがってきた […]
恐るべき新興宗教の出現
(2003/02 明るいクヨクヨ教掲載)
本来、私の仕事はあまり笑わずにすることになっている。別にそうと決めているわけでもないが、僧侶という仕事も小説を書く仕事も、自然な成り行きとして仕事中は笑わない。たまたま東海林さんの本の解説を書くという仕事が来たときも、 […]