この一作だけの感動 「みずうみ」という魔界

 川端康成さんの作品が好きだと、どこかで書いたことがある。どこが好きかと考えてみると、むろん細やかな心理の動きを象徴するフェティッシュなまでの具体の鮮やかさ、柔らかな構成や描かれる自然の美しさなどもあるが、何より話が転換するときの夢のような運ばれ方が好きなのかもしれない。
 フロイトは夢を、過去の心理状態にばかり還元したが、ユングはそのことに不満だった。二人が父子のような蜜月を終えた根本的なきっかけは、そのことだったかもしれない。ユングは夢があくまでも現在であり、植物が自然に生長するように、また動物ができるかぎり餌を探すように、夢じたいが表現しようとしていると見たのだ。だからこそ夢は、自然の一部なのだ、と。
 川端さんの作品のなかでも、夢の不思議さを最も強く感じさせたのが、『みずうみ』ではなかっただろうか。この作品は、夢そのものが描かれるわけではないが、まるで夢のように脈絡の解らない生長、というより増殖を続けていく。それはどんどん人間の心の深層に向かい、まるで仏教的アーラヤ識にまで行こうとするようだ。
 こんな闇が自分にも眠っているなんて、あまり思いたくはない。銀平は幼馴染みのいとこのやよいが、みずうみの氷が割れて沈んでしまえばいいと思い、長じて教師になったあとは教え子の久子と密会を繰り返し、ついには彼女の自宅の二階で、階下に家族が食事しているというのに逢い引きする。また幼い町枝に対する執拗な追跡と待ち伏せなどは、今で云えばストーカーだろう。
 冒頭に出てくるハンドバッグをぶつけたまま置いて逃げてしまう宮子は、いったい話の全体にどう関わってくるのだろう……。そう思いながら読み進んでいくと、なるほど、偶然のような関係が見えてくる。教師との密会を親友に告発された久子の、転校した学校の理事長である有田老人が、ハンドバックの宮子の愛人であり、その宮子の弟の友達の彼女が町枝だというのだ。こんなふうにさっと言われてもすぐには呑み込めないかもしれない。
 銀平の話と宮子の話は、まるで二つの夢のようにそれぞれに生長をとげ、やがて淡く合流したのち、夢は更なる「魔界」に向かう。
 作中、宮子の科白として「魔界」という言葉が出てくる。川端氏自身、頼まれた色紙にはよく「仏界入り易く、魔界入り難し」と書いた。明らかに入り難い魔界を、作者は目指したのである。
 幻想とも夢とも現実とも知れぬ魔界で、銀平はまるでストーカーさながらに言う。「能動者があって受動者のいない快楽は人間にあるだろうか」つまりあとをつけたくなる女はあとをつけてほしがっているという理屈だ。その証拠のように、教え子だった久子も言う。「先生、また私の後をつけて来て下さい。私が気がつかないようにつけて来て下さい」。そしてその理屈は、宮子にも、町枝にも適用され、銀平はネズミのいる溝の中で町枝を待ち伏せまでするのだ。
 そうした魔界へ銀平を促すものは、第一には醜い足への劣等感であり、それは冒頭で必要以上に隠微に描かれる。理屈で考えれば初恋のやよいから受けた侮辱もそうだし、また幼くして殺されたらしい父親という要因もあるのかもしれない。そしてその舞台が、いずれも母の里にあった「みずうみ」なのである。
 しかし、必要や理屈で夢がすすむわけではない。夢の世界では原因も結果も入り交じり、それは自然の一部としての理屈を超えた変幻を見せつける。
 中村真一郎氏はこの作品を、「意識の流れ」によって書かれた成功作であると讃えた。それに対し三島由紀夫は、読後の不快感を情熱的に語ったらしい。むろん語った内容は知らないが、おそらく三島は、「意識の流れ」を主体にした書き方の成功はともかく、どうしてそこまでの魔界に向かう必要があるのかを、心からは納得できなかったのではないだろうか。三島は個人の暗部を掘り下げた先に、「輪廻」という些か飛び道具的な因果律を用意していたようだ。「輪廻」があるかどうかはなんとも云えないが、少なくとも魔界は、その発想によって徹底的に個人の暗部であることを免れるのは確かだ。
 川端さんの魔界は「みずうみ」のように黒かった。それは町枝の瞳に喩えられることもあったが、基本的には底知れぬ我々の心の闇なのだと思う。
 最後に銀平が仏ごころを起こし、町枝が入院している恋人のために欲しがった蛍を籠ごと町枝の腰に引っかけて去る。しかしその仏ごころを境に、銀平は醜い現実に戻ってくる。夢から醒めた現実よりも、おそらく晩年の川端さんにとっての魔界は、苦しくとも妖しく美しかったのだろう。

2004/06 新潮掲載

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