日本語では、「自然に」という意味合いで「ひとりでに」と言う。どうしてそう言うのか、以前から気になっていたのだが、『古事記』を読んでいてはっと気づいた。これは明らかに「独神(ひとりがみ)」のせいだ。突然そう思ったのである。
「独神」とは、この国の最初の五柱の神さまの在り方である。アメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミ、そしてウマシアシカビヒコヂノカミ、アメノトコタチノカミの五柱は、「独神」でしかも「隠身(かくりみ)」、つまり結婚しなくても「独り」で子供を作れるし、姿が見えない。この二つの特徴から、「別天神(ことあまつかみ)」(特別な天の神)と呼ばれている。
生産性つまり産巣日(むすび)の力が珍重されるのは、最初の三神のうち二人にまで「産巣日」の文字が入ることでも明らかだろう。神そのものが結ぶ存在なのだ。タカミムスビだから天の高いところで発生し、カミムスビだから自己増殖も可能である。
『日本書紀』になると、産巣日は意訳されて「産霊(むすび)」になる。生産性に対する敬意が強く込められた表記だと思う。
「ひとりでに産まれる」ものは、共通する音「ケ」で呼ばれた。「毛」「木」「気」がその代表で、言われてみれば皆ひとりでに増殖する。しかも産霊を際だって尊重するため、その力が枯渇することを著しく忌避した。それが「ケ枯れ(=穢れ)」である。
独りで子供まで生産できる「独神」と違い、その後のイザナギやイザナミは対になって初めて産霊の力を持った。余る部分と足りない部分とが「イザナ」い合い、新たな命を産みだすのである。
たまたま『日本書紀』の編纂中に先祖たちは「陰陽」という考え方を知った。『古事記』本文には一度も出てこない「陰陽」という言葉が、きちんと生産原理の意味も踏まえて『日本書紀』には七カ所も出てくる。
ここから着想を得て、私は『荘子』の「両行(りょうこう)」という言葉を用い、『日本人の心のかたち』(角川SSC新書)という本を書いた。とにかく対を作って「両行」させ、産霊の力を増幅しようとしたのが日本人ではないかと、独断も含めて述べたのである。
ところでこの国には、別天神のほかにもう一つ産霊の力の権化が存在する。地蔵である。
もともとはイランの地母神とも言われ、インドの胎蔵界曼荼羅に登場する地蔵菩薩は、大地が蔵する能力、即ち生産性の象徴である。しかし仏教国といえど、日本ほど地蔵ばかりが増えてしまった国はない。いや、ほかの国ではほとんど絶滅寸前と言ってもいいだろう。
「ひとりでに」むすぶことが、この国ではそれほどに尊重されるのだと考えたい。
作品は普通「ひとりでに」はできない。悪戦苦闘の賜である。しかし不思議なことに、うまく行くとそれは「ひとりでに」出来たのだと感じる。その意味は「自然に」ということだから、つまりそのとき私の自然が拡張するのだろう。
書くことも生きることも、自分の自然を拡張しつづけることのような気がする。別天神ならぬ私には、そのための不自然が常に必要になる。不自然が「ひとりでに」自然になったと感じるとき、そこにはきっと新しい何かがむすばれている。
このエッセイは「風流ここに至れり」に収録されました。
2014/04/23 三田文学 NO.117