寂聴さんと出逢ったのは、私の『アミターバ』が「新潮」に掲載されて程なくだったと思う。読んで対談したいと言ってくださり、新潮社の編集者が段取ってくれたのである。
対談場所は磐梯熱海の温泉宿だった。郡山のホテルで一緒に食事を摂り、到着するとすぐに話し込んだ。死の前後に起こる不思議現象について、まるで少女のように好奇心満開だった様子が印象深い。
思えば寂聴さんとはそれ以前、修行時代にもそれとない接触があった。もう時効だろうから書いてしまうが、じつはグループサウンズ・テンプターズのヴォーカルだった「ショーケン」こと萩原健一が大麻不法所持で逮捕され、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。いきさつは知らないが寂聴さんは、ショーケンに禅寺での謹慎を勧め、なぜか我が師匠である天龍寺の平田精耕老師に頼み込んだようなのである。依頼どおり彼を預かったはいいが、しばらくすると天龍僧堂で修行するショーケンの望遠レンズ越しの姿が「フォーカス」に掲載された。いったいなぜ洩れたのかと考えると、直接であれ間接であれ、寂聴さんルートしか考えられないのだった。
平田老師は雲水たちに、寂聴さんの営む「寂庵」への出入りを禁じた。そのとき直接にどんなやりとりがあったのか、私は知らないが、たまたま私が道場にいた頃に出入禁止が解除になったのである。
招かれて出かけた寂庵での点心は豪華だった。十数人の雲水に寂椀と呼ばれるお椀でうどんが振る舞われ、帰りにはそれぞれに一袋ずつお土産まで付いた。寂聴さんは終始動き廻り、特になにかまとまった話をされたわけではなかったが、私が一人の雲水として感じたのは「やはりこの方から洩れたのだろう」ということ。そしてもしかすると、初めからそのつもりだったのか、とも思った。謹慎中の姿は世間に見せてこそ意味がある。お陰でショーケンは役者として見事に復活した。寂聴さんはそう考えていたのではないか。
一日目の対談を終えたあと、私は夕食で注がれた酒を相当飲んでいた。注ぎ上手というか、寂聴さんはとにかく世話好きなのだ。
特に世話したくなるのは、きっとショーケンのような「不良」っぽい人種なのだろう。私はまだ不良と呼ばれる資格はなかったが、死にゆくプロセスを本人目線で描いた『アミターバ』に、もしかしたら坊さんとしての不良性を嗅ぎ取ってくださったのかもしれない。
私は酔っていたせいか、それならと当時擱筆したばかりの「梵行」の原稿を寂聴さんに手渡した。『理趣経』という経典にもとづき、尼僧の性愛を描いたじつに不良坊主入り確実な作品である。
驚いたのは対談二日目の朝、寂聴さんは「梵行」をすでに読み終え、「いやぁ面白かったわ」との感想を下さったばかりか、続いてこう仰ったのである。「どうせなら、お経の話は省いちゃったら?」
私にとっては、『理趣経』あればこそ書いた物語だったわけだが、寂聴さんには言い訳に見えたのかもしれない。所詮、不良の格が違うということだろう。
ちなみにこの対談については、寂聴さんがNHKに連絡していたため対談の冒頭部分が撮影され、後日NHKと新潮社との間で版権などを巡る予期しない諍いも起こった。寂聴さんにとってはどうでもいいことのようだったが、私がようやくどうでもいいと思えたのはそれから数年後のことだった。
どうでもいいことは無論だが、どうでもよくないことからも寂聴さんは自由だった。楽天力とも言うべきその自由なパワーが大勢の人々を救済したのは間違いない。寂聴さん、たしか極楽があったら右足の親指を引っぱってくれる約束でしたよね?
2021/12/04 図書新聞 第3522号