エッセイ
坐禅と瞑想
( 掲載)
先日、ご縁があってベルギーとハンガリーに行ってきた。主な用事は女房がブリュッセルで行う「こより」の展示の手伝い、そしてそれだけじゃなんだから、と設定されたブダペストでの私の講演だった。 そちらのほうはお陰さまで無事済 […]
真の花
(2003/03 文藝春秋3月臨時増刊号掲載)
桜には、複雑な思いがある。むろん私とて、桜の美しさに単純に打たれないわけじゃないのだが、桜は私にとって、単に観賞する相手では済まない存在なのである。 うちのお寺には大正五年に、四人の檀家さんによって三百五十本のソメイ […]
「釈迦」書評 泥のなかに咲いた蓮たち
(2003年 文学界3月号掲載)
日本の仏教はすべて大乗仏教と括られるが、これは元々仏教サンガの周囲でその支持者であった在家の人々が教義も学びはじめ、仏塔や経典を守るだけでは飽き足りなくなって自分たちも包含した教えの拡張を願い、その結果できあがってきた […]
お風呂のような、般若心経
(2003/02/28 掲載)
なんて不謹慎な題か、と思われるかもしれない。しかし断っておくけれど、私はお風呂がとても好きなのである。しかしだからといって「とても好きな般若心経」でいいかというと、それほど単純ではない。お風呂もいろんな入り方が可能であ […]
東海林さだお 「明るいクヨクヨ教」解説 恐るべき新興宗教の出現
(2003/02 明るいクヨクヨ教掲載)
本来、私の仕事はあまり笑わずにすることになっている。別にそうと決めているわけでもないが、僧侶という仕事も小説を書く仕事も、自然な成り行きとして仕事中は笑わない。たまたま東海林さんの本の解説を書くという仕事が来たときも、 […]
桜と祭
(2003/02/02 朝日新聞 TRAVEL「神々の冒険」掲載)
誰の作かは知らないが、禅門では「昨日より 今日よりも今 桜かな」と詠う。桜を愛でる際のコツと考えてもいいが、じつは人生そのものの味わい方なのかもしれないと思う。目の前に咲く爛漫たる桜のように、私たちは今に咲いているので […]
夢みる手
(2002年 季刊銀花 冬百三十二号掲載)
掌の静脈はそれぞれ固有で他人とは違い、しかも一生変わらないのだと云う。この性質を利用して今年、マウス型の個人識別機が開発された。これからはパスワードではなく特定の手で操作しなければ動かないコンピューターが出現するだろう […]
有為の奥山 美しい日本語
(2002/08/08 文藝春秋 9月臨時増刊号掲載)
「美しい日本語」と云われても自分がそれを使っている自信は全くないから、ここでは最近の体験を紹介してみたい。 私の住む三春町では日本では初めて教育長の公募を一昨年行い、私もその選考委員を務めさせていただいた。五百人以上 […]
行脚のための「三種の神器」
(2002/08/08 週刊文春 私のごひいき第77回掲載)
日本神話の三種の神器は剣と勾玉と鏡だが、蒙古人の場合はこれがもう少し現実的になり、蒙古刀と食器とタバコになるらしい。 修行する僧侶には使用を許される十六の品目があり、それ以外を「無用の長物」と呼ぶが、行脚のときに必ず […]
御前さまの御前に
(2002年 男はつらいよ大全掲載)
寅さんの七回忌に合わせて作られる映画のパンフレット集だというのだから、やはり僧侶も何か書かなくてはなるまい。笠智衆さんも渥美清さんもすでに亡いが、あの二人の関係はじつに面白かった。私としては僧侶仲間である御前さまを憶い […]
「黙識」あるいは言語道断の言語
(2002年 鈴木大拙全集 第三十三巻 月報掲載)
鈴木大拙と呼び捨てにできるわけもないし、かといって大拙さんというほど通暁しているわけでもない。鈴木さんでは別人のようだから、ここでは大拙博士と呼ぶことにするが、そんなことで悩むほどに、大拙博士は遠くて近い存在である。 […]
360度の虹 旅人の追憶
(2002/05 JAL機関誌 ウィンズ掲載)
昔から空は人間にとって不思議な場所だった。 たとえば雲も、中国人は初め山腹から出てくると考え、その穴を岫(しゅう)と呼んだ。しかしそれも変だと、龍という生き物を創造した。龍の動いた跡が雲になると考えたのである。竜巻も […]