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エッセイ


翻訳された神さまのこと

(2004年 パウロ派機関紙 あけぼの1月号掲載)

 ある宗教が外国に輸出される場合、どうしても翻訳作業が伴う。ということは全く新しい概念が入ってきたとしても、それまで使われてきた言葉に翻訳される限りどうしても変質せざるを得ないということだ。もともとその言葉にあった意味が […]

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非常識の熟成について

(2004年 守山文芸 第9号掲載)

 たしか井上靖さんだったと思う。小説を書く人間は、なにより常識人である、というようなことをどこかで仰っていた記憶がある。  確かに多くの人々が書かれた内容に想像を膨らませ、従(つ)いてきてくれるためには、その人々の心性に […]

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仏道という「道」

(2003/11 大法輪掲載)

 『私だけの仏教』(講談社+α新書)などという本を書いたせいだろう、なんだか凄い場所に立たされてしまった。前門のトラ、後門の狼じゃないが、後ろには各宗派の陣幕がはためき、前には編集部や読者ばかりか我が宗門の重鎮の顔が浮か […]

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お墓とお骨のゆくえ

( 掲載)

 カッコウの場合、モズやホオジロやオナガなど、ほかの鳥の巣に卵を産みつけてしまう習性がある。托卵というのだが、だいたいは仮親の卵より先に孵るため、カッコウの雛は本来そこで孵るべき卵を巣から押しだしてしまうらしい。  人間 […]

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積み木を蹴って、ごめんなさい

(2003/09 小説宝石 エッセイ特集「今さらですが、お詫びします」掲載)

 今でこそ「和尚さん」なんて奉られ、あまつさえ芥川賞作家ということで「先生」などと呼ばれたりしているが、私には懺悔すべき過去が、かなりあるのである。  道場で警策で叩かれ、叩かれることを納得できる理由が見つからなくなると […]

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福島県人は「のんびりちゃきちゃきしんなり!?」

(2003/08 月刊ビジネスデータ []掲載)

 よく「この町の人は」とか、括って言われると不快に感じる。「そこの町民だって市民だって県民だって、いろいろいるだろう」という思いが擡げる。そんなことで女房と喧嘩したこともある。「それはいったい誰と誰のことか」などと問い詰 […]

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私の一点

(2003 掲載)

目の悟り 本来の自己「現す」のが真骨頂 (鎌倉-禅の源流展)  新聞紙上でどの程度文字が読みとれるか疑問だが、これは大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が建長寺で弟子に示した言葉である。「無位の真人」(あらゆる立場や役 […]

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美しくなっていく床

(2003/04/25 文芸ポスト掲載)

 私が小学校五年生のとき、我が小学校は木造部があらかた壊されて鉄筋コンクリートに造り変えられる工事が始まった。その二、三年前に中学校が火事で燃え、中学生たちが小学校にも通って仮の教室で授業を受けたりしたから、やはり木造で […]

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「道元を語る」所収エッセイ 有時(うじ)するということ

(2003/4/8 道元を語る掲載)

 宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。  イエス・キリストも釈尊も、自 […]

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三途の川の日本的変質

(2003 東北河川紀行掲載)

 日本人なら、「三途の川」を知らない人はいないだろう。しかし実際どんな川なのかは、案外知らない人が多いのではないだろうか?  日蓮の『十王讃歎鈔』(日蓮に仮託された偽書らしい)によれば、その川幅は四十由旬(ゆじゅん)だと […]

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坐禅と瞑想

( 掲載)

 先日、ご縁があってベルギーとハンガリーに行ってきた。主な用事は女房がブリュッセルで行う「こより」の展示の手伝い、そしてそれだけじゃなんだから、と設定されたブダペストでの私の講演だった。  そちらのほうはお陰さまで無事済 […]

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真の花

(2003/03 文藝春秋3月臨時増刊号掲載)

 桜には、複雑な思いがある。むろん私とて、桜の美しさに単純に打たれないわけじゃないのだが、桜は私にとって、単に観賞する相手では済まない存在なのである。  うちのお寺には大正五年に、四人の檀家さんによって三百五十本のソメイ […]

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