エッセイ
ホラ吹き
(2005/01/29 地方新聞各紙掲載)
ホラ吹きとは、一般にはウソつきのことだが、時には事を大袈裟(おおげさ)に話すことも含む。その場合は特に「大法螺(おおぼら)を吹く」と言ったりする。 ご存じのように、法螺とはもともと修験道などで使われるホラ貝製の楽器で […]
「わが屍は野に捨てよ-一遍遊行」解説 すさまじき遊行の迫力
(2005/1/28 新潮文庫掲載)
この本は、まるごと一遍上人の一生である。俗世での生い立ちや成長はむろんのことだが、念仏者として自身の教義を確立していく過程も、リアルに追体験できる。編年で書かれているのは、著者の誠実なのだろう。筆を遊ばせぬ確かな素描は […]
後生と一蓮托生
(2005/01/22 全国地方紙に掲載掲載)
最近はあまり耳にしなくなったが、「後生(ごしょう)だからお金貸しておくれよ」なんて、昔はよく聞いたものだった。今でも時代劇だと「後生だから命ばかりは」などと頼む。 この「後生」は、むろん本来は後の生、つまり来世のこと […]
人権とテトラポッド
(2005/01/20 人権のひろば掲載)
ふだん、あまり「人権」というようなことを考えて暮らしてはいない。恵まれているのだろう。たまに女房と喧嘩したりすると、急に「基本的人権」なんてことを憶いだす。おそらく人権に限らず、権利というものは、圧迫されたときに想起さ […]
莫迦
(2005/01/12 徳島新聞ほか 暮らしの中の仏教語掲載)
以前、『全国アホ・バカ分布考』という本があった。題名に似合わずまじめな言語学の本で、柳田国男さんの『蝸牛考(かぎゅうこう)』を推し進める形で言葉の発生と伝播(でんぱ)について論じていた。 つまり昔の言葉のほとんどは京 […]
師子身中の虫
(2005/01/05 愛媛新聞ほか 暮らしの中の仏教語第1回掲載)
元来 仏法に害なす者 たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架 […]
樸と器について
(2005/01/03 湘南朝日掲載)
裏山の木々の葉が落ちるこの季節になると、『老子』の「樸(あらき)」のことを憶いだす。 樸とは、何の加工もされていない、素材としての木のことだが、老子はいたくこの樸を絶賛する。たとえば十九章には聖人の在り方として「素を […]
日曜論壇 第4回 帰りなん、いざ!
(2004/12/12 福島民報掲載)
つい先日まで、福島県立美術館で「田園の夢」と題する展覧会が開かれていた。その展覧会の副題についていたのが標記の言葉である。 これはご存じ陶淵明の「帰去来の辞」の一節。どうして、どこに帰るのかというと、「田園まさに蕪( […]
名長篇 新潮が生んだ40作 川端康成「眠れる美女」
(2004/12/02 新潮掲載)
『眠れる美女』は、『みずうみ』の六年後、川端氏六十歳のときに書かれた。わざわざ『みずうみ』の六年後、と申し上げたのは、そこに『みずうみ』で見せられた魔界の深まりを感じたからだ。 主人公は江口という六十七歳の男性。妻も […]
「がんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代」書評 がんばらず、りきまずに生きて行く「縁起」の世界を説く
(2004/11/01 週刊ポスト掲載)
以前、「がんばる」という言葉は嫌いだ、と何かに書いたことがある。それは「がんばる」という言葉にはどうしても「りきむ」印象があり、そうすると却って力が出しきれないと思うからだ。しかしこの本に込められた熱い思いは他に言いよ […]
日曜論壇 第3回 ウォーキング・サピエンス
(2004/10/10 福島民報掲載)
最近はウォーキングがブームと云っていいだろう。歩くことが目的で歩いている人をよく見かける。 以前はジョギングが多かったが、ジョギングの発案者がジョギング中に亡くなったこともあり、代わって流行っているのがウォーキングと […]
日曜論壇 第2回 形而上的おぼん
(2004/08/08 福島民報掲載)
お盆とは、もともとは旧暦七月十五日の行事だった。 ということはつまり、お盆は必ず満月だったということだ。江戸時代になるとお盆は三日間に延長になるが、それでも必ず満月はつきものだったわけである。 その昔仏教が輸入され […]