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エッセイ


我が老師

(2006年5月16日 日本経済新聞掲載)

 吉川英治は「会う人みな我が師なり」という意味のことを云(い)ったらしい。しかし私にとって師といえば、やはり天龍寺の平田精耕老師だ。深い交遊について書くようにとのご依頼だし、果たして老師とのことを「交遊」と呼んでいいかど […]

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日曜論壇 第12回 木瓜と認知症

(2006年5月14日 福島民報掲載)

 庭先に木瓜(ボケ)が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つ […]

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こどもの図書館 巻頭エッセイ 再び泣くかもしれない赤鬼

(2006年5月10日 こどもの図書館掲載)

 浜田廣介作『泣いた赤鬼』を初めて読んだのは、小学校の三年生だったろうか。私は読みながら、泣いた。たしか青鬼が手紙を寄越し、心配した赤鬼がその家を訪ねていくのだが、青鬼は遠くへ行ってしまったらしく呼べども答えない。きっと […]

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日曜論壇 第11回 「満」と数え年

(2006年3月12日 福島民報掲載)

 最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが……。  数え年というのは、中国に由来 […]

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特集 脳と心を読み解く 禅と仮想

(2006年1月10日 ifeel 読書風景掲載)

 なぜだろう、茂木さんの書かれるものは、すんなり腑に落ちる。  ご本人には心外かもしれないが、たぶんそれは、文学的だからというだけでなく、仏教的あるいは禅的だから、かもしれない。  今回茂木さんが手にした鉗子(かんし)は […]

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日曜論壇 第10回 いくつもの春

(2006年1月8日 福島民報掲載)

 日本人は何度も春を祝う。  お正月には「頌春」とか「寿春」と書き、もう春を祝っている。また節分は本来一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をすべて「節分」と呼ぶのに、特に立春の前日だけを行事として祝う。  春の節 […]

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「白」を信じる

(2006年1月1日 白い国の詩 冬号掲載)

 東北を「白い国」と表現するのは、きっと雪のイメージなのだろう。しかし私にとっての「白」は、もっと様々な印象を喚起する。  まずは菩提心の「白」。悟りとしての菩提を求める心が、白衣観音の衣装になる。花嫁衣装の白無垢も、何 […]

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あらきそばと判官贔屓

(2005年12月25日 季刊新そば掲載)

 本当のことを云うと、私はうどん党である。ソバとうどんが両方ある店に入れば、必ずうどんを頼む。今回のご依頼があったときも、私はそう申し上げたのだが、それでも何か書くようにと仰る。  べつにソバが嫌いというわけではない。云 […]

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三つの言葉

(2005年12月10日 文藝春秋掲載)

各界の有識者32名が選んだ時代を象徴する3つの言葉 「正義」「効率」「遊ばない」  私は今年、『やおよろず的』という本を出したが、世界はそんなことにお構いなく、正義を振りかざす人々に満ちている。正義を認めないから「やおよ […]

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日曜論壇 第9回 ネコとヒトの教育

(2005年10月30日 福島民報掲載)

 最近、どうも屋根裏にネズミがいるようだ。本堂の屋根裏にはハクビシンがいるからそちらには行かないのだろうが、庫裏ではときどきネズミが何かを転がして遊んだりする。  やはりネコもイヌもいなくなってしまったからだろう。昔はネ […]

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「いのちの日記-神の前に、神とともに、神なしに生きる」書評 病魔に冒された科学者が辿り着いた「神なき信仰」

(2005年10月21日 週刊ポスト 味わい本発見 この分野はこれを読め!掲載)

 生命科学の先端を歩んでらした柳澤さんの原因不明の病苦については、以前から聞き及んでいた。  ようやく食器が洗えるようになった柳澤さんがいつかテレビに映っており、苦しさを訴えるのではなく、「食器の積み方を楽しむ」と仰って […]

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鏡板の老松

(2005年10月5日 月刊国立能楽堂掲載)

 能舞台の正面奥の鏡板には、必ず老松の絵が描かれている。これはもともと、奈良春日大社の一の鳥居のところの影向の松の下で神事が行われたことに由来するらしい。  松は昔から、神の天降りを「待つ」神聖でめでたい木とされてきた。 […]

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