1. Home
  2. /
  3. エッセイ
  4. /
  5. Page 27

エッセイ


こどもの図書館 巻頭エッセイ 再び泣くかもしれない赤鬼

(2006/5/10 こどもの図書館掲載)

 浜田廣介作『泣いた赤鬼』を初めて読んだのは、小学校の三年生だったろうか。私は読みながら、泣いた。たしか青鬼が手紙を寄越し、心配した赤鬼がその家を訪ねていくのだが、青鬼は遠くへ行ってしまったらしく呼べども答えない。きっと […]

続きを読む… from 再び泣くかもしれない赤鬼


日曜論壇 第11回 「満」と数え年

(2006/03/12 福島民報掲載)

 最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが……。  数え年というのは、中国に由来 […]

続きを読む… from 「満」と数え年


特集 脳と心を読み解く 禅と仮想

(2006/1/10 ifeel 読書風景掲載)

 なぜだろう、茂木さんの書かれるものは、すんなり腑に落ちる。  ご本人には心外かもしれないが、たぶんそれは、文学的だからというだけでなく、仏教的あるいは禅的だから、かもしれない。  今回茂木さんが手にした鉗子(かんし)は […]

続きを読む… from 禅と仮想


日曜論壇 第10回 いくつもの春

(2006/01/08 福島民報掲載)

 日本人は何度も春を祝う。  お正月には「頌春」とか「寿春」と書き、もう春を祝っている。また節分は本来一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をすべて「節分」と呼ぶのに、特に立春の前日だけを行事として祝う。  春の節 […]

続きを読む… from いくつもの春


「白」を信じる

(2006/01/01 白い国の詩 冬号掲載)

 東北を「白い国」と表現するのは、きっと雪のイメージなのだろう。しかし私にとっての「白」は、もっと様々な印象を喚起する。  まずは菩提心の「白」。悟りとしての菩提を求める心が、白衣観音の衣装になる。花嫁衣装の白無垢も、何 […]

続きを読む… from 「白」を信じる


あらきそばと判官贔屓

(2005/12/25 季刊新そば掲載)

 本当のことを云うと、私はうどん党である。ソバとうどんが両方ある店に入れば、必ずうどんを頼む。今回のご依頼があったときも、私はそう申し上げたのだが、それでも何か書くようにと仰る。  べつにソバが嫌いというわけではない。云 […]

続きを読む… from あらきそばと判官贔屓


三つの言葉

(2005/12/10 文藝春秋掲載)

各界の有識者32名が選んだ時代を象徴する3つの言葉 「正義」「効率」「遊ばない」  私は今年、『やおよろず的』という本を出したが、世界はそんなことにお構いなく、正義を振りかざす人々に満ちている。正義を認めないから「やおよ […]

続きを読む… from 三つの言葉


日曜論壇 第9回 ネコとヒトの教育

(2005/10/30 福島民報掲載)

 最近、どうも屋根裏にネズミがいるようだ。本堂の屋根裏にはハクビシンがいるからそちらには行かないのだろうが、庫裏ではときどきネズミが何かを転がして遊んだりする。  やはりネコもイヌもいなくなってしまったからだろう。昔はネ […]

続きを読む… from ネコとヒトの教育


「いのちの日記-神の前に、神とともに、神なしに生きる」書評 病魔に冒された科学者が辿り着いた「神なき信仰」

(2005/10/21 週刊ポスト 味わい本発見 この分野はこれを読め!掲載)

 生命科学の先端を歩んでらした柳澤さんの原因不明の病苦については、以前から聞き及んでいた。  ようやく食器が洗えるようになった柳澤さんがいつかテレビに映っており、苦しさを訴えるのではなく、「食器の積み方を楽しむ」と仰って […]

続きを読む… from 病魔に冒された科学者が辿り着いた「神なき信仰」


鏡板の老松

(2005/10/05 月刊国立能楽堂掲載)

 能舞台の正面奥の鏡板には、必ず老松の絵が描かれている。これはもともと、奈良春日大社の一の鳥居のところの影向の松の下で神事が行われたことに由来するらしい。  松は昔から、神の天降りを「待つ」神聖でめでたい木とされてきた。 […]

続きを読む… from 鏡板の老松


剃髪への目覚めと、その後

(2005/10/01 月刊正論掲載)

 初めて頭を丸めたのは、小学校三年のときだった。これは綽名が「ぼうず」であったため、それに反抗する気分からだろう。「おうさ、坊主になってやろうじゃないか」という程度の、少年とすれば少し自虐的だが、勇敢な冒険だったのだと思 […]

続きを読む… from 剃髪への目覚めと、その後


幽玄に向かうとき

(2005/09 臨済会報掲載)

 幽玄といえば、お能を憶いだすかもしれない。幽は「かすか」とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のことだ。  能や水墨画の特徴としての認識が強いかもしれないが、これは明 […]

続きを読む… from 幽玄に向かうとき