エッセイ
「戦略経営者」掲載 中小という美徳 小さいからこそ可能なこと
(2006/10/01 戦略経営者掲載)
発達心理学者のプレマックによれば、大中小という三区分はともかく、人間には大きさを見分ける能力が生得的に具わっているらしい。生得的に、というのは、つまりそれに見合った体験によって学習するのではなく、まさに新品のPCに初め […]
日曜論壇 第14回 無鉄砲と、鉄砲
(2006/09/17 福島民報掲載)
この夏、二人の青年がお寺に別々に訪ねてきた。一人は滋賀県から、もう一人は埼玉県からだ。なぜ二人を一緒に語るのかというと、二人とも自転車でやってきたのが新鮮だったからだ。 埼玉県の十九歳の青年は、じつは去年一度訪ねてき […]
無宗教による追悼?
(2006/08/28 教育新聞掲載)
このところ我が国では、外圧に耐えかねたのか、靖国神社を無宗教の追悼施設に作りかえようなどいう意見まで出てきた。いったい無宗教でどうやって追悼するのか、教えていただきたいものだ。 まず祭壇に代わるものをどのように作り、 […]
アレンジに期待
(2006/08/21 きょういくEYE掲載)
この四月から、校長先生や教頭先生による先生方の評価が始まった。先生方の質の低下を防ぐため、その評価によっては再教育なども考えているらしい。しかもその際、先生方自身にも自己評価させ、それも参考にすると云うのだが、いったい […]
高提祖印
(2006/08/17 週刊シルクロード紀行掲載)
浙江省の天目山(てんもくざん)という山に、日本で云う鎌倉時代の中期、アジア全域から学生を集めた優れた教師がいた。中峰明本(ちゅうほうみょうほん)という臨済宗の禅僧である。 敢えて教師と書いたのは、当時日本や朝鮮半島、 […]
この夏、日本をもっと知るための50冊
(2006/08/17 週刊文春 夏の特大号掲載)
「危うし!小学校英語」 鳥飼玖美子 文春新書 「無思想の発見」 養老孟司 ちくま新書 「徒然草」 兼好法師 岩波文庫他 「つれづれ」なる時間の重さ 最近、鳥飼玖美子さんが書かれた『危うし!小学校英語』(文春新書)は、今 […]
「ガンをつくる心 治す心」推薦文 心のそよかぜ
(2006/06/15 掲載)
土橋先生に初めてお目にかかったのは、ラジオの対談のためだった。長年、ガンを含む外科治療の第一線で活躍されていた先生が手術の現場を離れ、東京と大阪でガンについての相談室を開設されてから、まだそれほどは経っていなかったと思 […]
日曜論壇 第13回 「小学校英語」必修化に反対
(2006/07/16 福島民報掲載)
小学生には是非とも日本語をきっちり学んでほしい。私はそう思うのだが、このところ高まる英語熱には如何ともしがたい圧力を感じていた。しかしこのほど、鳥飼玖美子さんが文春新書で『危うし! 小学校英語』を書いてくださった。我々 […]
我が老師
(2006/05/16 日本経済新聞掲載)
吉川英治は「会う人みな我が師なり」という意味のことを云(い)ったらしい。しかし私にとって師といえば、やはり天龍寺の平田精耕老師だ。深い交遊について書くようにとのご依頼だし、果たして老師とのことを「交遊」と呼んでいいかど […]
日曜論壇 第12回 木瓜と認知症
(2006/05/14 福島民報掲載)
庭先に木瓜(ボケ)が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つ […]
こどもの図書館 巻頭エッセイ 再び泣くかもしれない赤鬼
(2006/5/10 こどもの図書館掲載)
浜田廣介作『泣いた赤鬼』を初めて読んだのは、小学校の三年生だったろうか。私は読みながら、泣いた。たしか青鬼が手紙を寄越し、心配した赤鬼がその家を訪ねていくのだが、青鬼は遠くへ行ってしまったらしく呼べども答えない。きっと […]
日曜論壇 第11回 「満」と数え年
(2006/03/12 福島民報掲載)
最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが……。 数え年というのは、中国に由来 […]