エッセイ
名長篇 新潮が生んだ40作 川端康成「眠れる美女」
(2004/12/02 新潮掲載)
『眠れる美女』は、『みずうみ』の六年後、川端氏六十歳のときに書かれた。わざわざ『みずうみ』の六年後、と申し上げたのは、そこに『みずうみ』で見せられた魔界の深まりを感じたからだ。 主人公は江口という六十七歳の男性。妻も […]
「がんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代」書評 がんばらず、りきまずに生きて行く「縁起」の世界を説く
(2004/11/01 週刊ポスト掲載)
以前、「がんばる」という言葉は嫌いだ、と何かに書いたことがある。それは「がんばる」という言葉にはどうしても「りきむ」印象があり、そうすると却って力が出しきれないと思うからだ。しかしこの本に込められた熱い思いは他に言いよ […]
日曜論壇 第3回 ウォーキング・サピエンス
(2004/10/10 福島民報掲載)
最近はウォーキングがブームと云っていいだろう。歩くことが目的で歩いている人をよく見かける。 以前はジョギングが多かったが、ジョギングの発案者がジョギング中に亡くなったこともあり、代わって流行っているのがウォーキングと […]
日曜論壇 第2回 形而上的おぼん
(2004/08/08 福島民報掲載)
お盆とは、もともとは旧暦七月十五日の行事だった。 ということはつまり、お盆は必ず満月だったということだ。江戸時代になるとお盆は三日間に延長になるが、それでも必ず満月はつきものだったわけである。 その昔仏教が輸入され […]
この一作だけの感動 「みずうみ」という魔界
(2004/06 新潮掲載)
川端康成さんの作品が好きだと、どこかで書いたことがある。どこが好きかと考えてみると、むろん細やかな心理の動きを象徴するフェティッシュなまでの具体の鮮やかさ、柔らかな構成や描かれる自然の美しさなどもあるが、何より話が転換 […]
日曜論壇 第1回 タケノコ狩りと自立について
(2004/06/06 福島民報掲載)
ふつうタケノコは、「採る」ものであって「狩る」ものではない。しかし竹藪が広く、食べきれない分を宅配便で知人に送ってもなお出てくる余分については、もう「狩る」しかない。うちでは、「やっつける」とも言っている。柄の長い鎌や […]
透明な軌道の、その先
(2004/05/01 週刊朝日百科「仏教を歩く 改訂版」第30号(朝日新聞出版社)掲載)
宮澤賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる檻のなかに入っていくようなものかもしれない。大勢の人が本気でカンカンガクガク論じる様子は、ほんとにちょっと怖いと思う。 どうしてそうなるのかと考えると、理由が二つ思いつく […]
手紙のなかの「虚」と「実」
(2004/04/28 母から子への手紙掲載)
『こんなふうに生きてみたら』―心がホッとする、母から子への手紙の前書き 母から子への手紙を、今年もたくさん読んだ。 原稿用紙一枚だけなのに、どうしてこうも揺さぶられ、袖を絞らされるのか、些かまいってしまう。 それは […]
「罰としての作文」に思う
(2004/03 道徳研究 No.46掲載)
これは最近、親戚の子供の通う学校で実際に起こったことである。小学校六年生のその女の子は、バスケットボールに夢中。要するに活発な子なのだが、その子が学校で禁じられているゲームセンターに友達と行ったことが告げ口で発覚。先生 […]
念ずる力―野口英世の母・シカの手紙
(2004/03 墨 3・4月号掲載)
手紙のことを中国では「信」と云うが、逆に「手紙」と云えばあちらではちり紙のことになってしまう。トイレットペーパーも「手紙」である。 なにもちゃかすつもりはないが、中国の「信」という表現は「手紙」よりもずいぶん重く感じ […]
桜並木をそぞろ歩き
(2004/03/26 週刊朝日掲載)
生まれ育った寺の本堂の前に枝垂れ桜があった。江戸時代に植えられたものだろう。幹が直径1メートルほど。子供のころに登って遊んだのが、桜についての古い記憶である。 1989年の春。その木が枯れて、最後は1本の枝にだけ何輪 […]
私の「大人のための3冊」
(2004 考える人 冬号掲載)
木村 敏 『時間と自己』 中公新書 福永 光司 『老子』 朝日選書 清水 良典 『自分づくりの文章術』 ちくま新書 大人とは、「無常」を心底理解した状態だと思っている。その意味で、人間という存在のゆらぎをまざまざと見せ […]