エッセイ
透明な軌道の、その先
(2004/05/01 週刊朝日百科「仏教を歩く 改訂版」第30号(朝日新聞出版社)掲載)
宮澤賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる檻のなかに入っていくようなものかもしれない。大勢の人が本気でカンカンガクガク論じる様子は、ほんとにちょっと怖いと思う。 どうしてそうなるのかと考えると、理由が二つ思いつく […]
手紙のなかの「虚」と「実」
(2004/04/28 母から子への手紙掲載)
『こんなふうに生きてみたら』―心がホッとする、母から子への手紙の前書き 母から子への手紙を、今年もたくさん読んだ。 原稿用紙一枚だけなのに、どうしてこうも揺さぶられ、袖を絞らされるのか、些かまいってしまう。 それは […]
「罰としての作文」に思う
(2004/03 道徳研究 No.46掲載)
これは最近、親戚の子供の通う学校で実際に起こったことである。小学校六年生のその女の子は、バスケットボールに夢中。要するに活発な子なのだが、その子が学校で禁じられているゲームセンターに友達と行ったことが告げ口で発覚。先生 […]
念ずる力―野口英世の母・シカの手紙
(2004/03 墨 3・4月号掲載)
手紙のことを中国では「信」と云うが、逆に「手紙」と云えばあちらではちり紙のことになってしまう。トイレットペーパーも「手紙」である。 なにもちゃかすつもりはないが、中国の「信」という表現は「手紙」よりもずいぶん重く感じ […]
桜並木をそぞろ歩き
(2004/03/26 週刊朝日掲載)
生まれ育った寺の本堂の前に枝垂れ桜があった。江戸時代に植えられたものだろう。幹が直径1メートルほど。子供のころに登って遊んだのが、桜についての古い記憶である。 1989年の春。その木が枯れて、最後は1本の枝にだけ何輪 […]
私の「大人のための3冊」
(2004 考える人 冬号掲載)
木村 敏 『時間と自己』 中公新書 福永 光司 『老子』 朝日選書 清水 良典 『自分づくりの文章術』 ちくま新書 大人とは、「無常」を心底理解した状態だと思っている。その意味で、人間という存在のゆらぎをまざまざと見せ […]
翻訳された神さまのこと
(2004年 パウロ派機関紙 あけぼの1月号掲載)
ある宗教が外国に輸出される場合、どうしても翻訳作業が伴う。ということは全く新しい概念が入ってきたとしても、それまで使われてきた言葉に翻訳される限りどうしても変質せざるを得ないということだ。もともとその言葉にあった意味が […]
非常識の熟成について
(2004年 守山文芸 第9号掲載)
たしか井上靖さんだったと思う。小説を書く人間は、なにより常識人である、というようなことをどこかで仰っていた記憶がある。 確かに多くの人々が書かれた内容に想像を膨らませ、従(つ)いてきてくれるためには、その人々の心性に […]
仏道という「道」
(2003/11 大法輪掲載)
『私だけの仏教』(講談社+α新書)などという本を書いたせいだろう、なんだか凄い場所に立たされてしまった。前門のトラ、後門の狼じゃないが、後ろには各宗派の陣幕がはためき、前には編集部や読者ばかりか我が宗門の重鎮の顔が浮か […]
お墓とお骨のゆくえ
( 掲載)
カッコウの場合、モズやホオジロやオナガなど、ほかの鳥の巣に卵を産みつけてしまう習性がある。托卵というのだが、だいたいは仮親の卵より先に孵るため、カッコウの雛は本来そこで孵るべき卵を巣から押しだしてしまうらしい。 人間 […]
積み木を蹴って、ごめんなさい
(2003/09 小説宝石 エッセイ特集「今さらですが、お詫びします」掲載)
今でこそ「和尚さん」なんて奉られ、あまつさえ芥川賞作家ということで「先生」などと呼ばれたりしているが、私には懺悔すべき過去が、かなりあるのである。 道場で警策で叩かれ、叩かれることを納得できる理由が見つからなくなると […]
福島県人は「のんびりちゃきちゃきしんなり!?」
(2003/08 月刊ビジネスデータ []掲載)
よく「この町の人は」とか、括って言われると不快に感じる。「そこの町民だって市民だって県民だって、いろいろいるだろう」という思いが擡げる。そんなことで女房と喧嘩したこともある。「それはいったい誰と誰のことか」などと問い詰 […]