風流ここに至れり

震災をはさんでの、この10年玄侑宗久の心の「ゆらぎ」「今」にゆらぎながら、常に重心を取り直す禅の智慧流動し続ける現実に、文学は、宗教は、どう向き合うのか。福島県三春町在住の僧侶・作家による、10年以上にわたる「風流」=「 […]

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余白の美

 禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。  なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。  仏教は人生 […]

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傾聴する僧侶

 昔は「旅の坊主に地侍」と言われた。僧侶は余所で生まれ育った人のほうがよく、侍は地縁血縁などを利用するためにも土地の人のほうがいい、ということだろう。僧侶はどうしてその土地の人でないほうがいいのか、何度か考えたことがある […]

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ひとりでに

 日本語では、「自然に」という意味合いで「ひとりでに」と言う。どうしてそう言うのか、以前から気になっていたのだが、『古事記』を読んでいてはっと気づいた。これは明らかに「独神(ひとりがみ)」のせいだ。突然そう思ったのである […]

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この辺りの幽霊の問題

 いま、被災地では、「幽霊の問題」があちこちで起こっている。そのことは、今年(二〇一三年)の七月、京都大学のこころの未来研究センター主催で開かれたシンポジウムでもテーマになった。生憎、私は先約があって出席できなかったのだ […]

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仕事をしたり笑ったり

 宮澤賢治の一生は、二つの大災害に挟まれた三十七年間、と見ることもできる。生まれる二ヵ月まえに起きたのが明治三陸大地震(津波)、そして亡くなる半年まえに起きたのが昭和三陸大地震(津波)である。  生まれる以前のことはとも […]

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守られた時間と、天恵

 世の中では「読書の秋」と言われる。しかし「食欲の秋」でもあり「スポーツの秋」でもあり、また各種イヴェントも秋には目白押しである。忙しすぎて、本など読んでいられないのではないか。  私のなかでは、やはりまとまった読書がで […]

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死がまとう生の衣装

 私はこれまで、「死の周辺」と解説されるような、さまざまな小説を書いてきた。死にゆくプロセスの恍惚に思いをいたして『水の舳先』(新潮文庫)を書き、死そのものの在り方を『アミターバ』(新潮文庫)で追い求め、また死後の「中陰 […]

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運命の休刊

 大学生の頃、学校にはあまり行かず、小説を書いていた。自分の輪郭もよく分からず、「文体」にも意識は行き届かなかった。新人賞に応募しても二次選考に通らないこともあり、鬱屈した日々だった。  ところがある新人賞で最終選考に残 […]

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