1. Home
  2. /
  3. 仏教
  4. /
  5. Page 2

「竹林」……この厄介で魅力的な場所
(エッセイ・ 2018/1/9 )

 竹林とは不思議な場所である。風水ではその土地の歪みを矯正し、弱点を補うために竹を植えると聞いたこともある。また竹は地味豊かな土にしか生えないとされ、豊かな土壌の象徴でもある。  しかし最近は手が入れられず、放置されたま […]

続きを読む…


南山に雲起こり……。
(エッセイ・ 2016/11/30 )

 禅語に、「南山に雲起こり、北山に雨下(ふ)る」という言葉がある。辞書によっては「雲を起こし」「雨を下(くだ)す」と訓じているが、これは中国語独特の表現であくまでも自発。他動詞的に訳すと余計な意味が付着する。  そんなこ […]

続きを読む…


己の欲せざるところ
(エッセイ・ 2016/9/11 )

 『新約聖書』マタイによる福音書第七章十二節には、「己の欲するところを人に施せ(Do as you would be done to)」とある。一方、『論語』には2カ所、顔淵篇(がんえんへん)と衛霊公篇(えいれいこうへん […]

続きを読む…


入我我入(にゅうががにゅう)
(エッセイ・ 2016/9/10 )

 シャシンと聞いて、初めに「捨身」を想い、それから「ああ、写真」と思う。けれども写眞の眞とは何なのか、六田氏の作品を眺めるうちにわからなくなる。  眞は、いつかどこかに存在した束の間の時間かというと、そうでもない。印画紙 […]

続きを読む…


「往く」のではなく「還る」
(エッセイ・ 2016/7/18 )

 臨済宗僧侶という立場上、特定の死生観を奉じていると思われるかもしれないが、むしろ逆である。つまり、多くの人々に戒名をつけ、引導を渡すことを仕事にしているため、故人それぞれの人生上のテーマを探し、それを肯定しなくてはなら […]

続きを読む…


被災地で読む 心ひかれた 生き物の逞しさ
(エッセイ・ 2016/5/15 )

小説家・玄侑宗久  東日本大震災のときの自分の体験を振り返ると、ふた月ちかくは本が読めなかった。親しい編集者が『方丈記』(鴨長明著、ちくま学芸文庫など)を薦めてくれ、ようやく活字に浸る久しぶりの体験をしたのだが、これは今 […]

続きを読む…


鶴と亀と還暦
(エッセイ・ 2016/1/6 )

 還暦に思うこと、というご要望なので、一巡した丙申(ひのえさる)までの人生を些か振り返り、いま思うことを書いてみたい。  自分のこれまでの人生を省みると、どうやら私は敷かれたレールからいつも少しずれた道を歩き続けてきたよ […]

続きを読む…


お地蔵さんの祈り
(エッセイ・ 2016/1/6 )

 仏教をいくらか学んだ人なら、お地蔵さんが僧形であるワケもご存じかもしれない。僧侶が独身と決まっていた時代のことだが、僧侶ならいつでもどこへでも助けに来てくれる、「ちょっとこれから、出かけてもいいかなぁ?」などと奥さんに […]

続きを読む…


村上マンダラの深化
(エッセイ・ 2015/10/31 )

自噴する修行僧のように制作を続けてきた村上隆氏が、今度は五百羅漢図を描いた。しかも見晴るかすことさえ難しい全長100メートルの大幅、高さも3メートルある代物である。戦後日本のアニメやおたく文化を入り口に、江戸期からの伝統 […]

続きを読む…


立秋とお盆
(エッセイ・ 2015/9/5 )

 立秋は二十四節気の一つで、今年は八月八日だった。この原稿は八日の晩に書いているのだが、今朝も日没後も確かに風が変わったと感じ、調べてみたら今日がまさに立秋だったのである。  立秋を境に、朝吹く風だけでなく、空もスッと高 […]

続きを読む…


香りと清浄心
(エッセイ・ 2015/3/28 )

 香だけはいくら贅沢しても、僧侶にとって贅沢とは言えないと、何度か聞いたことがある。近年では、臨済宗妙心寺派の管長だった山田無文老師がよくそう仰っていた。おそらくそれは香の魅力、いや威力、あるいは魔力を知悉されてのことだ […]

続きを読む…


みちのくの御仏(みほとけ)たち
(エッセイ・ 2015/1/1 )

 「みちのく」つまり「道奥」が、けっして蔑称ではなく、ある種の畏怖を伴った尊称だと知ったのはいつ頃だったろうか。 思えばあらゆる文化的伝統を「道」として捉える日本人にとって、その「奥」は誰もが「ゆかしい」と思う場所なはず […]

続きを読む…

トップへ戻ります