仏教
有情の春
(エッセイ・
2005/4/26 )
仏教には、この世のすべての物を「有情(うじょう)」と「非情」とで分ける習慣がある。「有情」は唐の玄奘(げんじょう)三蔵が梵(ぼん)語の sattva(サットバ) を訳した言葉で、それ以前は「衆生」と訳されていた。 衆 […]
仏教宇宙 VS 物理宇宙 仏教宇宙が物理宇宙を包み込む
(エッセイ・
2005/3/31 )
宇宙というと、ふつうはOuter Space、つまり地球外の空間を想像されるだろう。しかし初めにお断りしておきたいのは、ここでの宇宙とは空間だけでなく、時間をも含んだ概念であることだ。 「宇宙」という言葉が初めて現れ […]
なぜ仏教にひかれるのか?
(インタビュー・
2005/3/28 )
ここ数年、各地の禅寺でさかんに坐禅会が催され、多くの中高年が参加しています。 また、六十歳を機に仏門に入る「還暦得度」をする人も増えています。 書店には仏教関連の書物が並び、お遍路をしたり熊野古道を訪れたりする人は後を絶 […]
自燈明(じとうみょう)
(エッセイ・
2005/2/20 )
二月の半ばは、我々僧侶にとっては涅槃会(ねはんえ)の季節だ。たいていのお寺では、お釈迦さまが右手枕で横になった「涅槃図」をかけてお祀りするはずである。そこには大勢の弟子たちばかりでなく、禽獣類もたくさん描かれている。な […]
形而上的おぼん
(エッセイ・
2004/8/8 )
お盆とは、もともとは旧暦七月十五日の行事だった。 ということはつまり、お盆は必ず満月だったということだ。江戸時代になるとお盆は三日間に延長になるが、それでも必ず満月はつきものだったわけである。 その昔仏教が輸入され […]
透明な軌道の、その先
(エッセイ・
2004/5/1 )
宮澤賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる檻のなかに入っていくようなものかもしれない。大勢の人が本気でカンカンガクガク論じる様子は、ほんとにちょっと怖いと思う。 どうしてそうなるのかと考えると、理由が二つ思いつく […]
翻訳された神さまのこと
(エッセイ・
2004/1/31 )
ある宗教が外国に輸出される場合、どうしても翻訳作業が伴う。ということは全く新しい概念が入ってきたとしても、それまで使われてきた言葉に翻訳される限りどうしても変質せざるを得ないということだ。もともとその言葉にあった意味が […]
仏道という「道」
(エッセイ・
2003/11/30 )
『私だけの仏教』(講談社+α新書)などという本を書いたせいだろう、なんだか凄い場所に立たされてしまった。前門のトラ、後門の狼じゃないが、後ろには各宗派の陣幕がはためき、前には編集部や読者ばかりか我が宗門の重鎮の顔が浮か […]
泥のなかに咲いた蓮たち
(エッセイ・
2003/3/3 )
日本の仏教はすべて大乗仏教と括られるが、これは元々仏教サンガの周囲でその支持者であった在家の人々が教義も学びはじめ、仏塔や経典を守るだけでは飽き足りなくなって自分たちも包含した教えの拡張を願い、その結果できあがってきた […]
行脚のための「三種の神器」
(エッセイ・
2002/8/8 )
日本神話の三種の神器は剣と勾玉と鏡だが、蒙古人の場合はこれがもう少し現実的になり、蒙古刀と食器とタバコになるらしい。 修行する僧侶には使用を許される十六の品目があり、それ以外を「無用の長物」と呼ぶが、行脚のときに必ず […]
お経と小説
(エッセイ・
2002/1/31 )
中陰の花が咲き、芥川賞を受賞してしまった(二〇〇一年)。すると全国あちこちの和尚さんたちからたくさんの手紙が届いた。単に喜びと激励の手紙もあるが、多くは「じつは自分も永いこと小説を書いていて……」というもので、そうした […]