仏教
金風
(エッセイ・
2008/11/2 )
食欲の秋、文化の秋、スポーツの秋、読書の秋。秋には何でもよく似合うわけだが、なにもこれを全部こなして忙しくしろという意味ではない。昔から秋は稔りの季節。なにをやっても深く味わえるときということだろう。 たいていの田畑 […]
私は裁きません!
(エッセイ・
2008/6/15 )
このところ、あまりに重要な取り決めがたいした議論を経ないでストンと決まることが多い気がする。「裁判員制度」もそうだ。私が世間知らずなだけかもしれないが、少なくとも騒ぎになったときにはもう決まっていた観がある。 調べる […]
奈落の月
(エッセイ・
2007/10/7 )
今年の仲秋の名月は、九月二十五日だった。坐禅会の終わった十時すぎに夜空を見上げると、薄曇りではあったがそれでも大きな月がかかっていた。 上座部仏教圏では、お釈迦さまが生まれたのも成道されたのも、亡くなったのも満月の日 […]
若冲展に思う
(エッセイ・
2007/6/3 )
京都相国寺の承天閣美術館で開かれている若冲展に行ってきた。 これほど人が行列しているのを見たのは何年ぶりだろうか。パンダかモナリザを憶いださせる盛況ぶりだった。しかもそこに私が並んだのだから珍しい。ふだんはたとえどん […]
クリエイティヴな死の稽古が生の質を変える
(エッセイ・
2007/5/29 )
我々の経験する世界は、じつは「心」や「無意識」によって支えられ、成り立っている。それは仏教的常識というより、今や脳科学的な知見と云ってもいいだろう。脳内にインストールされているソフトに見合った体験しか、我々はしないので […]
「生きる」ことと記憶
(エッセイ・
2007/5/28 )
通常、記憶というのはコンピュータのメモリーのように、脳のどこかに固定的に貯蔵されているものと思いがちである。しかしどうもそうではなく、憶いだす瞬間に再構築されているらしい。 そのことは、ノーベル賞を受賞した神経学者ジ […]
仏教的立場から見れば この世とは無常の時間であり、不透明であって当然なのです
(インタビュー・
2007/1/27 )
巻頭ポエム 雇われないで生きていく 仏教では、「現在」を生き切ることが大切だと考える。 今をきちんと生きないことは怠慢なのである。 だが、多くの人たちは過去や未来に現在を従属させている。 将来のための準備だといって、 現 […]
個性を強要される現代人を引き込む「蜜」
(インタビュー・
2006/11/10 )
守護霊、前世療法、占星術――。オウム真理教事件の風化とともに、再び神秘世界に引き込まれる現代人が急増している。この非科学的な世界の魅力とは何か。その心を繙く。 科学の進歩になじむ霊 ここ数年、人々が霊的な存在に関心を持 […]
仏教者が読んだ「美しい国へ」
(エッセイ・
2006/10/10 )
安倍新内閣を採点する 文春新書『美しい国へ』を読んだ。こういう形で自分の考えを事前に提示する総裁が、これまでいたのかどうか寡聞にして知らないが、考えようでは、これは劇場型政治のあとの、脚本家あるいは演出家政治の始まりか […]
宗教と文学 賢治で結ぶ
(インタビュー・
2006/9/5 )
禅宗の僧侶である作家、玄侑宗久氏(50)の著作が相次いでいる。最近1年間の新刊は12冊。なかでも『お坊さんだって悩んでる』(文春新書)、『慈悲をめぐる心象スケッチ』(講談社)には、この時代の現実と宗教、文学をつなぐ、果敢 […]
無宗教による追悼?
(エッセイ・
2006/8/28 )
このところ我が国では、外圧に耐えかねたのか、靖国神社を無宗教の追悼施設に作りかえようなどいう意見まで出てきた。いったい無宗教でどうやって追悼するのか、教えていただきたいものだ。 まず祭壇に代わるものをどのように作り、 […]
アレンジに期待
(エッセイ・
2006/8/21 )
この四月から、校長先生や教頭先生による先生方の評価が始まった。先生方の質の低下を防ぐため、その評価によっては再教育なども考えているらしい。しかもその際、先生方自身にも自己評価させ、それも参考にすると云うのだが、いったい […]