仏教
立秋とお盆
(エッセイ・
2015/9/5 )
立秋は二十四節気の一つで、今年は八月八日だった。この原稿は八日の晩に書いているのだが、今朝も日没後も確かに風が変わったと感じ、調べてみたら今日がまさに立秋だったのである。 立秋を境に、朝吹く風だけでなく、空もスッと高 […]
『月刊住職』にて新連載
(おしらせ・
2015/7/1 )
仏教界の専門誌「月刊住職」にて新連載「日日是薩婆訶(にちにちこれそわか)」が始まりました。 2015年7月1日発売の7月号より掲載されています。特定の何日間かの日記的な記録です。 […]
香りと清浄心
(エッセイ・
2015/3/28 )
香だけはいくら贅沢しても、僧侶にとって贅沢とは言えないと、何度か聞いたことがある。近年では、臨済宗妙心寺派の管長だった山田無文老師がよくそう仰っていた。おそらくそれは香の魅力、いや威力、あるいは魔力を知悉されてのことだ […]
みちのくの御仏(みほとけ)たち
(エッセイ・
2015/1/1 )
「みちのく」つまり「道奥」が、けっして蔑称ではなく、ある種の畏怖を伴った尊称だと知ったのはいつ頃だったろうか。 思えばあらゆる文化的伝統を「道」として捉える日本人にとって、その「奥」は誰もが「ゆかしい」と思う場所なはず […]
社会不安と宗教の移ろい
(エッセイ・
2014/12/5 )
昔から、社会不安と宗教の興隆変化には、一定の因果関係が認められるように思う。簡単に言えば、社会不安が増大することである種の宗教が流行したり、あるいは宗教の内部に変化が起こったりするということだ。宗教である以上、変わらぬ […]
「最後の希望」としての幽霊たち
(エッセイ・
2014/10/17 )
東日本大震災以後、東北の被災地では「幽霊」の目撃譚が非常に多く聞かれる。二〇一三年七月には京都大学「こころの未来研究センター」が「被災地の幽霊」を主題にしたシンポジウムを開いた。今や、幽霊が学術的な研究対象になる事態な […]
余白の美
(エッセイ・
2014/9/8 )
禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。 なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。 仏教は人生 […]
「神秘」という名の救済
(エッセイ・
2014/6/27 )
神秘について解説をするなんて、じつに不粋な話である。しかも本書で「神秘家」と括られている方々は、誠に多彩である。柳田国男や泉鏡花、平田篤胤など、神秘を精密に記述せんとした人々もいる一方で、仙台四郎の如く、晩年の「没蹤跡 […]
ひとりでに
(エッセイ・
2014/4/23 )
日本語では、「自然に」という意味合いで「ひとりでに」と言う。どうしてそう言うのか、以前から気になっていたのだが、『古事記』を読んでいてはっと気づいた。これは明らかに「独神(ひとりがみ)」のせいだ。突然そう思ったのである […]
アッパレお国ことば~福島・三春町(2) エンガ見た!
(エッセイ・
2014/1/1 )
この言葉の詳しい通用域についてはよくわからない。私の住む三春町では使うし、隣町でも聞いたことはあるのだが、果たして福島県中通り全体なのか、それとも県中地区に限るのか、はたまた福島県外でも使うのか、その辺が定かじゃないの […]
虎穴に入る君子
(エッセイ・
2013/2/22 )
噂というのは、たいてい不正確なものである。本人から聞くのではなく、間に距離や人間、場合によっては報道なども介在したりするのだから当然のことだろう。 だいたい本人から聞いた話でも、相手はすべてを理解するわけではない。極 […]
木を植える仏教
(エッセイ・
2013/1/1 )
かつて、木を伐るのは仏教ではないと、老僧が言うのを聞いたことがある。むろん不殺生戒あっての話だが、老僧はいわゆる「開発」に対する仏教の基本的立場も示したかったのだと思う。 もともと寺には寺号のほかに山号がある。これなど […]