仏教
「最後の希望」としての幽霊たち
(エッセイ・
2014/10/17 )
東日本大震災以後、東北の被災地では「幽霊」の目撃譚が非常に多く聞かれる。二〇一三年七月には京都大学「こころの未来研究センター」が「被災地の幽霊」を主題にしたシンポジウムを開いた。今や、幽霊が学術的な研究対象になる事態な […]
余白の美
(エッセイ・
2014/9/8 )
禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。 なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。 仏教は人生 […]
ひとりでに
(エッセイ・
2014/4/23 )
日本語では、「自然に」という意味合いで「ひとりでに」と言う。どうしてそう言うのか、以前から気になっていたのだが、『古事記』を読んでいてはっと気づいた。これは明らかに「独神(ひとりがみ)」のせいだ。突然そう思ったのである […]
アッパレお国ことば~福島・三春町(2) エンガ見た!
(エッセイ・
2014/1/1 )
この言葉の詳しい通用域についてはよくわからない。私の住む三春町では使うし、隣町でも聞いたことはあるのだが、果たして福島県中通り全体なのか、それとも県中地区に限るのか、はたまた福島県外でも使うのか、その辺が定かじゃないの […]
虎穴に入る君子
(エッセイ・
2013/2/22 )
噂というのは、たいてい不正確なものである。本人から聞くのではなく、間に距離や人間、場合によっては報道なども介在したりするのだから当然のことだろう。 だいたい本人から聞いた話でも、相手はすべてを理解するわけではない。極 […]
木を植える仏教
(エッセイ・
2013/1/1 )
かつて、木を伐るのは仏教ではないと、老僧が言うのを聞いたことがある。むろん不殺生戒あっての話だが、老僧はいわゆる「開発」に対する仏教の基本的立場も示したかったのだと思う。 もともと寺には寺号のほかに山号がある。これなど […]
白隠 厳粛かつポップな禅僧
(エッセイ・
2012/11/12 )
白隠慧鶴禅師は貞享二(一六八六)年、駿河の国、原の宿に生まれ、明和六(一七六八)年、八十四歳で遷化した臨済宗の僧である。諡(おくりな)は後桜町天皇から「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)」、明治天皇から「正宗国師( […]
暮らしの中の宗教
(エッセイ・
2012/6/30 )
今回の特集テーマそのもののようなタイトルである。 「生活」を「暮らし」に変えたのは私の単なる趣味だが、私が書く以上それは「暮らしの中の『仏教』」ではないか、という疑念をもたれるかもしれない。 それについては、日本人 […]
死して生まれよ ~無常と「もののあはれ」~
(エッセイ・
2012/3/3 )
「仏教の三宝印の一つ“諸行無常”。この“無常”は、とりわけ日本で発達した世界観である」――と語るのは、福島県で生まれ育った臨済宗住職であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏。国難を迎えた現代日本にあって、東日本大震災復興構想 […]
無常の価値を、見直す時代
(インタビュー・
2011/8/7 )
震災後、多くの人が心のよりどころを求めています。こうした中、仏教の果たす役割とは? 作家で僧侶の玄侑宗久さんを福島の福聚寺にたずね、仏教の魅力について伺いました。 寛容さが日本仏教の特徴 仏教はインドから中国を経て日本 […]