自著・共著に関する記事
虚の世界が現実以上の現実となって現前する一瞬を語る
(論評・
2003/7/4 )
かつて幸田露伴は仏教の教えに基づいた「風流仏」を創作するに際し、言文一致ではない「文章」体に依拠して表現したのだが、今同じ宗教体験について創作するとしたら、表現はどうなるのだろうか。その困難なところに挑んだ作品である。 […]
死にゆく意識リアルに描写
(論評・
2003/6/29 )
タイトルの「アミターバ」とは「阿弥陀」に通じる言葉で、「無量の光」に満ちた極楽浄土のイメージを表しているらしい。 八十歳を目前にした老女が肝臓の胆管部の癌に冒される。生存率がほとんどゼロの難しい部位である。私の友人もち […]
『アミターバ』~死者の目で描く往生伝~
(論評・
2003/6/8 )
世の中には宗教小説というものがある。「アミターバ」もある意味では宗教小説であり、仏教小説であるだろう。現役僧侶の作家が書き、その題名「アミターバ」は無量光明の意味であり、阿弥陀如来の名前そのものである。だが、これは仏教 […]
電池の入れ替え時は?
(論評・
2003/6/1 )
昔の人は人生観は一個でよかった。 一個で充分まかなえた。 だいたい十七、八歳ごろから二十歳にかけて人生観を完成させ、そのあとはその一個でずうっとやっていけた。 途中でその人生観の中身を手直ししたりすると、「変節漢」などと […]
「死」を語る言葉を取り戻す試み
(論評・
2003/6/1 )
わたしの上顎の、右側の二本目の前歯は神経が通っていない。高校生の頃、どういう具合か歯のなかが化膿し、わたしが抜きたくないと言うと、歯科医は穴をあけてなかを洗浄し、薬を詰めてくれた。以来、それはからっぽのまま、わたしの歯 […]
有時(うじ)するということ
(エッセイ・
2003/4/8 )
宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。 イエス・キリストも釈尊も、自 […]
真の花
(エッセイ・
2003/3/3 )
桜には、複雑な思いがある。むろん私とて、桜の美しさに単純に打たれないわけじゃないのだが、桜は私にとって、単に観賞する相手では済まない存在なのである。 うちのお寺には大正五年に、四人の檀家さんによって三百五十本のソメイ […]
私も武道経験者です
(インタビュー・
2003/2/1 )
師走の二十日、福島県三春町、鎌倉末期創建の名刹、臨済宗妙心寺派福聚寺へと向かった。 境内に一際高くそびえる本堂の横、戦国時代に建立されて移築されたという「書院」に通された。部屋に入ると背筋がスッと伸びる。床の間には『乾 […]
お経と小説
(エッセイ・
2002/1/31 )
中陰の花が咲き、芥川賞を受賞してしまった(二〇〇一年)。すると全国あちこちの和尚さんたちからたくさんの手紙が届いた。単に喜びと激励の手紙もあるが、多くは「じつは自分も永いこと小説を書いていて……」というもので、そうした […]
中陰ガム
(エッセイ・
2001/10/31 )
芥川賞の受賞決定後、友人からメイルが届いた。「中陰という言葉を現代日本に浮かび上がらせた宗久さんも大したもんだ。流行語大賞となり、たくさんの人が中陰ガムなんか食べるようになれば今の日本人の知的ユーモアも水準が高いと言え […]
臨終観が示す救いの地平
(論評・
2001/7/8 )
かねてから疑問に思っていることがあった。日本の仏教者から現代社会に切り込むような発言が聞こえてこないのは何故か。新宗教はともかく、在来仏教からの発言は極めて少ない。仏教的見地から見たグローバリゼーションとか、仏教的教育 […]
水の舳先
(論評・
2001/5/24 )
現役僧りょの作家による芥川賞候補作。主人公は東北の温泉療養所で書道を教える僧りょ。彼と入所患者との間に流れていた平凡な時間は、ある男の死をきっかけにバランスを崩し始める。その過程を落ち着いた筆致でつづりながら、生と死、 […]