自著・共著に関する記事
檀那と坊主
(エッセイ・
2005/2/5 )
「社長、ちょっと寄ってくださいよ」なんて今の客引きは誘うが、昔は「旦那(だんな)さん」と呼びかけた。この「旦那」、本来は「檀那」と書く。梵語のダーナパティの音写である。 もともと仏教教団を経済的に支えた布施者のことだ […]
ホラ吹き
(エッセイ・
2005/1/29 )
ホラ吹きとは、一般にはウソつきのことだが、時には事を大袈裟(おおげさ)に話すことも含む。その場合は特に「大法螺(おおぼら)を吹く」と言ったりする。 ご存じのように、法螺とはもともと修験道などで使われるホラ貝製の楽器で […]
後生と一蓮托生
(エッセイ・
2005/1/22 )
最近はあまり耳にしなくなったが、「後生(ごしょう)だからお金貸しておくれよ」なんて、昔はよく聞いたものだった。今でも時代劇だと「後生だから命ばかりは」などと頼む。 この「後生」は、むろん本来は後の生、つまり来世のこと […]
死んだらどうなるの?
(論評・
2005/1/20 )
「死」とは何か。「あの世」とはどういうところだろうか。「魂」って本当にあるのだろうか。「小学校の三年生の頃、死ぬのがこわかった」という自らの体験を踏まえて、誰でもが必ず抱く根源的な疑問に、僧侶である著者がていねいに答え […]
莫迦
(エッセイ・
2005/1/15 )
以前、『全国アホ・バカ分布考』という本があった。題名に似合わずまじめな言語学の本で、柳田国男さんの『蝸牛考(かぎゅうこう)』を推し進める形で言葉の発生と伝播(でんぱ)について論じていた。 つまり昔の言葉のほとんどは京 […]
師子身中の虫
(エッセイ・
2005/1/5 )
元来 仏法に害なす者 たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架 […]
居場所を失った現代人のはかなさ
(論評・
2004/11/7 )
いわずと知れた芥川賞作家にして現役の僧侶、一貫して真正面から「死と救済」に取り組んできた著者が、自殺という重いテーマを扱った書き下ろし長編。そのわりに、読後感がさわやかなのは、この著者の作品に共通の特徴。 自殺した若 […]
自殺した若い女性の魂を生き残った者たちが追い求め、いつか自らが救われる物語
(論評・
2004/11/6 )
玄侑宗久という作家は、『禅的生活』に代表されるような説教や伝道の方面での活躍が最近やたら目立つが、本来は実力のある小説家である。そのことを証明したのは前作の『アミターバ』だった。死にゆく者が現世を離れていく心のプロセス […]
ウォーキング・サピエンス
(エッセイ・
2004/10/10 )
最近はウォーキングがブームと云っていいだろう。歩くことが目的で歩いている人をよく見かける。 以前はジョギングが多かったが、ジョギングの発案者がジョギング中に亡くなったこともあり、代わって流行っているのがウォーキングと […]
著者とその本
(論評・
2004/10/1 )
独特の死生観を描いた魅力的な作品を世に送り続ける、“小説を書く僧侶”玄侑宗久氏。新作『リーラ 神の庭の遊戯』は、自殺と「共時性」がテーマの長編小説である。 自殺した二十三歳の女性・飛鳥。彼女と関わりのあった六人が、そ […]
ストーカーの魔の淵で
(論評・
2004/10/1 )
一人の若い女性の自殺をめぐる物語。著者はこれまで六冊の小説(デビュー作で芥川賞候補になった『水の舳先』、芥川賞受賞作『中陰の花』、受賞以後の『アブラクサスの祭』『化蝶散華』『御開帳綺譚』『アミターバ』)で、霊魂と救済の […]
自殺めぐり複数の視点で 玄侑宗久氏の新作『リーラ』
(論評・
2004/9/29 )
約3万4000人という史上最多の自殺者が出ているなか、僧侶で作家の玄侑宗久さんが発表した自殺をめぐる小説『リーラ 神の庭の遊戯』(新潮社)が注目されている。仏教思想に基づく「答え」の提示ではなく、息苦しい世界観を超えて […]