自著・共著に関する記事
脳と魂
(論評・
2005/2/8 )
超刺激的な本が出た。『脳と魂』。解剖学者の養老孟司と、臨済宗の禅僧にして作家の玄侑宗久。両氏の対談である。解剖学者と禅僧。一見、異種格闘技試合のような組み合わせにも思える。が、もの言わぬ死体を見つめ続け、自然の在りよう […]
最先端思想を平易な言葉で
(論評・
2005/2/7 )
養老孟司は解剖学者(東京大学名誉教授)、玄侑宗久は臨済宗僧侶で、平成十三年に『中陰の花』により芥川賞を受賞した作家である。本書は、「観念と身体」「都市と自然」「世間と個人」「脳と魂」の四章からなり、書名はその終章から採 […]
科学と禅が織りなす螺旋
(論評・
2005/2/7 )
仏教的な解剖学者と、科学的な禅僧。異なる゛知゛が共振し合う対談。<学校の体育の時間が、要するに、速く走る、高く飛ぶばかりで、普通に歩く、座るっていうことを全く教えないじゃないですか。全部非日常的な身体の使い方です>と禅 […]
檀那と坊主
(エッセイ・
2005/2/5 )
「社長、ちょっと寄ってくださいよ」なんて今の客引きは誘うが、昔は「旦那(だんな)さん」と呼びかけた。この「旦那」、本来は「檀那」と書く。梵語のダーナパティの音写である。 もともと仏教教団を経済的に支えた布施者のことだ […]
ホラ吹き
(エッセイ・
2005/1/29 )
ホラ吹きとは、一般にはウソつきのことだが、時には事を大袈裟(おおげさ)に話すことも含む。その場合は特に「大法螺(おおぼら)を吹く」と言ったりする。 ご存じのように、法螺とはもともと修験道などで使われるホラ貝製の楽器で […]
後生と一蓮托生
(エッセイ・
2005/1/22 )
最近はあまり耳にしなくなったが、「後生(ごしょう)だからお金貸しておくれよ」なんて、昔はよく聞いたものだった。今でも時代劇だと「後生だから命ばかりは」などと頼む。 この「後生」は、むろん本来は後の生、つまり来世のこと […]
死んだらどうなるの?
(論評・
2005/1/20 )
「死」とは何か。「あの世」とはどういうところだろうか。「魂」って本当にあるのだろうか。「小学校の三年生の頃、死ぬのがこわかった」という自らの体験を踏まえて、誰でもが必ず抱く根源的な疑問に、僧侶である著者がていねいに答え […]
莫迦
(エッセイ・
2005/1/15 )
以前、『全国アホ・バカ分布考』という本があった。題名に似合わずまじめな言語学の本で、柳田国男さんの『蝸牛考(かぎゅうこう)』を推し進める形で言葉の発生と伝播(でんぱ)について論じていた。 つまり昔の言葉のほとんどは京 […]
師子身中の虫
(エッセイ・
2005/1/5 )
元来 仏法に害なす者 たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架 […]
居場所を失った現代人のはかなさ
(論評・
2004/11/7 )
いわずと知れた芥川賞作家にして現役の僧侶、一貫して真正面から「死と救済」に取り組んできた著者が、自殺という重いテーマを扱った書き下ろし長編。そのわりに、読後感がさわやかなのは、この著者の作品に共通の特徴。 自殺した若 […]
自殺した若い女性の魂を生き残った者たちが追い求め、いつか自らが救われる物語
(論評・
2004/11/6 )
玄侑宗久という作家は、『禅的生活』に代表されるような説教や伝道の方面での活躍が最近やたら目立つが、本来は実力のある小説家である。そのことを証明したのは前作の『アミターバ』だった。死にゆく者が現世を離れていく心のプロセス […]
ウォーキング・サピエンス
(エッセイ・
2004/10/10 )
最近はウォーキングがブームと云っていいだろう。歩くことが目的で歩いている人をよく見かける。 以前はジョギングが多かったが、ジョギングの発案者がジョギング中に亡くなったこともあり、代わって流行っているのがウォーキングと […]