自著・共著に関する記事
再び泣くかもしれない赤鬼
(エッセイ・
2006/5/10)
こどもの図書館 巻頭エッセイ
浜田廣介作『泣いた赤鬼』を初めて読んだのは、小学校の三年生だったろうか。私は読みながら、泣いた。たしか青鬼が手紙を寄越し、心配した赤鬼がその家を訪ねていくのだが、青鬼は遠くへ行ってしまったらしく呼べども答えない。きっと […]
三つの言葉
(エッセイ・
2005/12/10)
各界の有識者32名が選んだ時代を象徴する3つの言葉 「正義」「効率」「遊ばない」 私は今年、『やおよろず的』という本を出したが、世界はそんなことにお構いなく、正義を振りかざす人々に満ちている。正義を認めないから「やおよ […]
読書日和
(論評・
2005/11/1)
祝福 書評 (執筆:石田千氏)
ずっと待っていたのだった。 一年じゅうむけられる、あまたのレンズから、不忍の蓮はようやくひとりを見つけた。憑かれた写真家は、一万七千回、シャッターを押すはめになった。 まんまとフィルムにのりうつると、池を抜け出し、ふ […]
不忍池の蓮に荘厳された中国人女性との愛の物語
(論評・
2005/10/8)
書評 (執筆:千葉望氏)
この本を開いたときに目を射るのは、不忍池の象徴である蓮の写真である。写真家・坂本真典が、一万七〇〇〇枚も撮りためたという蓮の写真は、二〇〇枚が選ばれ作家の玄侑宗久のもとに届けられた。玄侑は写真を眺め、何度か不忍池にも足 […]
祝福
(論評・
2005/10/6)
今月の注目本130 独断と偏見だけど超厳選
写真家・坂本の手による蓮の写真に触発されて、 芥川賞作家・玄侑が紡ぎだした激しい恋の物語。 可憐な蕾や妖艶な花びら、気高い最期の姿など、 写真がもつ圧倒的な迫力に、美しいストーリーが呼応する。 写真と小説の奇跡のような出 […]
幽玄に向かうとき
(エッセイ・
2005/9/21)
幽玄といえば、お能を憶いだすかもしれない。幽は「かすか」とも読むが、さまざまなものが渾然としている奥深さ、また玄とはすべての色がそこから出てくる黒のことだ。 能や水墨画の特徴としての認識が強いかもしれないが、これは明 […]
「もらい笑い」の思い出
(エッセイ・
2005/9/1)
最近はあまり聞かないが、かつて中国には泣き女・泣き男という習慣があった。つまり儒教で葬儀をするに際し、儒教には僧侶に当たる人がいないので、儀式ぜんたいを泣くことで盛り上げ、ある種のカタルシスにまで運んだのだろう。 唐 […]
なぜ、悩む!
(論評・
2005/8/8)
書評
『なぜ、悩む!』は、臨済宗僧侶で作家の玄侑宗久氏と、スリランカ上座部仏教の長老A・スマナサーラ氏の対談集。片や大乗、片や上座部、それぞれの立場から忌憚ない言葉が飛び交い、きわめて刺激的で有意義な対談がなされている。たと […]
「左脳に落ちない」身体の覚醒
(論評・
2005/5/2)
脳と魂 書評
「ああなれば、こうなる」と思い悩む前に、まずは意識の壁をとり払って身体にもどれという解剖学者。はからいを捨て、日常の所作一つひとつに心身の融和を体感せよという禅僧。二人の「地」に根ざしつつ螺旋(らせん)する「知」の共振 […]
有情の春
(エッセイ・
2005/4/26)
仏教には、この世のすべての物を「有情(うじょう)」と「非情」とで分ける習慣がある。「有情」は唐の玄奘(げんじょう)三蔵が梵(ぼん)語の sattva(サットバ) を訳した言葉で、それ以前は「衆生」と訳されていた。 衆 […]
脳と魂
(論評・
2005/4/22)
新刊Book Guide
解剖学者と宗教者の非常にユニークで面白い対談集である。 世俗の常識や西欧近代化型の思考にこだわってきた人なら、目からウロコ、あるいは目を洗われるような文言が、軽快に飛び交い、快い刺戟のなかで、分量を感じさせない楽しい […]
仏教・キリスト教 死に方・生き方
(論評・
2005/4/20)
書評
作家・僧侶の玄侑宗久さんと聖心会シスターの鈴木秀子さんの対談集。坐禅と瞑想など、仏教とキリスト教それぞれの立場から、生かされている命をどう生きるかについて、深く語り合っている。迷いに心を揺らしながら生きる私たちに、根本的 […]