自著・共著に関する記事
死して生まれよ ~無常と「もののあはれ」~
(エッセイ・
2012/3/3 )
「仏教の三宝印の一つ“諸行無常”。この“無常”は、とりわけ日本で発達した世界観である」――と語るのは、福島県で生まれ育った臨済宗住職であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏。国難を迎えた現代日本にあって、東日本大震災復興構想 […]
蜘蛛の中の銀
(エッセイ・
2011/12/18 )
三月十一日からちょうど八ヵ月が経過した十一月十一日、主に福島大学を会場にして「ふくしま会議」が開かれた。 十一日には全体会があり、十二日には「若もの会議」の他、四つのテーマによる分科会が開かれた。「いのち:子供の今、 […]
死がまとう生の衣装
(エッセイ・
2011/11/27 )
私はこれまで、「死の周辺」と解説されるような、さまざまな小説を書いてきた。死にゆくプロセスの恍惚に思いをいたして『水の舳先』(新潮文庫)を書き、死そのものの在り方を『アミターバ』(新潮文庫)で追い求め、また死後の「中陰 […]
この秋の、切なる願い
(エッセイ・
2011/11/18 )
空は高くなり、水も澄んで、佳い季節になってきた。 お寺には、例年のように、美味しそうな秋の味覚が届けられる。二本松で大々的に栗を生産している檀家のIさんは、今年も網袋入りの大粒の丹波栗を持ってきてくださり、「12ベク […]
正義はとっても困る
(エッセイ・
2011/10/18 )
正義感にかられた女性からの「電話」は、福島の放射能を巡る問題を象徴するものだった――。 いま、放射能のことは、福島県内には限らない世界的な問題である。私自身も、中国やフランスの国営放送、ドイツの週刊誌「シュピーゲル」、 […]
上野のカツオ、小名浜のカツオ
(エッセイ・
2011/8/1 )
三月十一日(二〇一一年)から四月の初旬まで、私はほとんど町外に出かけなかった。新幹線が止まり、高速道路も通じなかったという事情もあるが、なによりそれを使って出かける講演を全てキャンセルしてしまったのである。 ずっと以 […]
運命の休刊
(エッセイ・
2010/12/15 )
大学生の頃、学校にはあまり行かず、小説を書いていた。自分の輪郭もよく分からず、「文体」にも意識は行き届かなかった。新人賞に応募しても二次選考に通らないこともあり、鬱屈した日々だった。 ところがある新人賞で最終選考に残 […]
花散らぬ、嵐
(エッセイ・
2010/4/11 )
四月二日、東京五反田のIMAGICAという映像・音響施設で、映画「アブラクサスの祭」の初号試写会があった。以前そこには、自著の朗読のために行ったことがある。しかし今回は桜が満開だったせいか、少々迷いながら辿り着いた。 […]
心の不思議 三重人格の妻
(論評・
2010/1/9 )
講談社は日本最大の出版社。みんなも数々のマンガや雑誌などで、きっとおなじみだろう。その講談社が昨年十二月に創業百周年を迎(むか)えた。めでたいことである。創業時のスローガンは「おもしろくて、ためになる」だったという。ぼ […]
多様な人格持つ人間存在の闇
(論評・
2009/12/1 )
妻、実佐子の中にもう1人の女性がいる。知彦は、いつもの控えめな妻ではなく奔放で、底意地の悪い女性の出現に驚く。彼女は、肉体は実佐子そのものであるにもかかわらず「あたしはあいつじゃないわよ」「トモミよ」とうそぶく。精神科 […]
まもなくクランク・アップ
(エッセイ・
2009/11/29 )
映画の撮影開始のことを、手回しカメラ時代のハンドル(Crank)にあやかってクランク・インと呼ぶ。今や手回しではなく、記録用のビデオさえデジタルだが、ともあれ映画『アブラクサスの祭』の撮影が始まっている。 それに先だち […]
「多重人格」題材に人の無意識を描く
(論評・
2009/11/27 )
仏教啓蒙の仕事を旺盛に続けている著者の、作家としての実力のほどを窺わせる本格的な書き下ろし長編小説である。 めっぽう面白い。息を継ぐ暇もないほどの展開と、構成の妙に酔わされる。俗にいう「多重人格」、現在では「解離性同 […]