日曜論壇
大人と子供
(エッセイ・
2011/2/27 )
子供のころ、大人というのは複雑でよく解らない人々だと思っていた。酒を飲みタバコを吸う様子にも、きっと大きくならないと子供には解らない理屈があるのだろうと思っていた。小学校から中学に上がってもその感覚は変わらず、大人の行 […]
計画病
(エッセイ・
2010/12/19 )
このところ、死後のことなどを考えるのがブームのようだ。「死」そのもののイメージが湧きにくいため、どうしても死後のことばかり考えるのだろうが、この両者は大きく隔たっている。 葬儀は身内だけでいいとか、お墓はもう申し込ん […]
「情報」という名の幽霊
(エッセイ・
2010/10/17 )
情報化社会と云われて久しい。学生たちもこぞってコンピューターを使い、世界中の情報を自由に取得できる時代になった……、かに思われているが、果たして本当にそうだろうか。 百歳以上で行方知れずの人々はどんどん増え、最終的な […]
死ねる病院はどこ?
(エッセイ・
2010/8/15 )
厚労省の内部用語であった「後期高齢者」という言葉が表沙汰に使われ、えらく不評だったのは記憶に新しいが、それが今度は「長寿」医療制度などと改名されたのだから、ちゃんちゃら可笑しい。 命名については笑うしかないが、笑って […]
墓地共用のすすめ
(エッセイ・
2010/6/13 )
このところ、島田裕巳氏が『お葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を書き、一条真也氏が反論として『お葬式は必要!』(双葉新書)を書くなど、お葬式をめぐる状況の変化が俄かに注目されている。 私の立場で「必要」だと申し上げるの […]
花散らぬ、嵐
(エッセイ・
2010/4/11 )
四月二日、東京五反田のIMAGICAという映像・音響施設で、映画「アブラクサスの祭」の初号試写会があった。以前そこには、自著の朗読のために行ったことがある。しかし今回は桜が満開だったせいか、少々迷いながら辿り着いた。 […]
七転び八起き
(エッセイ・
2010/1/31 )
正月に達磨の軸物を飾るのは禅寺の習慣だが、うちのお寺では雪村筆の達磨図を大晦日に掛けることになっている。福聚寺七世であった鶴堂和尚の弟子になったのが雪村であり、僧名は鶴船周継である。 雪村は茨城県に生まれ、福聚寺開山 […]
まもなくクランク・アップ
(エッセイ・
2009/11/29 )
映画の撮影開始のことを、手回しカメラ時代のハンドル(Crank)にあやかってクランク・インと呼ぶ。今や手回しではなく、記録用のビデオさえデジタルだが、ともあれ映画『アブラクサスの祭』の撮影が始まっている。 それに先だち […]
新作『阿修羅』のこと
(エッセイ・
2009/9/27 )
十月八日に、久しぶりの長編小説『阿修羅』が刊行になる。講談社が創立百周年に当たって百冊の書き下ろし本を刊行するのだが、そのうちの一冊として書いたものだ。 依頼は二年ちかくまえにあり、そのときから「解離」という現代の病 […]
さまざまな立場
(エッセイ・
2009/6/21 )
このところ墓地内に建設中の永代供養墓のことでいろんなことを考える。大勢の人々がそれぞれの立場から協力してくださり、それがとてもありがたいのだが、時にはその立場の違いで意見の違いが出てくる。今問題になっているのは、屋根の […]
生物多様性と多文化共生
(エッセイ・
2009/5/24 )
このところ環境問題のほうでは、生物多様性ということがよく言われる。より多くの生物が共生できる環境こそ素晴らしいという考え方に異論はないのだが、この場合、どういうわけか帰化植物や外国からやってきた虫などは嫌われる傾向にあ […]
団子と頭痛
(エッセイ・
2009/3/8 )
県内だけでなく、けっこう広い地域に云い伝わることだが、お墓参りのときにお供えした団子を食べると頭が痛くならないという。 僧侶になりたての時は、莫迦な迷信とも思い、またそれなら団子にバファリンやノーシンでも入れたらどう […]