エッセイ
日曜論壇 第47回 教育委員会という「飾り」
(2012/07/22 福島民報掲載)
このところ、滋賀県大津市の中二少年の自殺をめぐり、報道が盛んである。「いじめ」の有無について、教職員たちが話し合った形跡もあるが、実効のある予防策を講じることはできなかった。 こうした問題が起きると、いつも教育委員会 […]
暮らしの中の宗教
(2012/06/30 弘道 第1078号掲載)
今回の特集テーマそのもののようなタイトルである。 「生活」を「暮らし」に変えたのは私の単なる趣味だが、私が書く以上それは「暮らしの中の『仏教』」ではないか、という疑念をもたれるかもしれない。 それについては、日本人 […]
日曜論壇 第46回 子どもの日の祈り
(2012/05/20 福島民報掲載)
いま、福島県内は、放射能についての話が率直にできない状態だと感じる。誰もがある程度の知識ですでに態度を決定し、それに反する新たな情報には耳を貸さないのである。 それは新聞やテレビなどのメディアも同じである。さまざまな […]
日曜論壇 第45回 悲しみの底
(2012/03/18 福島民報掲載)
未曽有の大震災から一年が経ち、各地で追悼の儀式が営まれた。実に多くの人々があらためて悲しみを深くし、それでも新たな一歩を踏みだそうとしているわけだが、中にはそうできない人々もいる。行方不明者が今も3000人以上いること […]
死して生まれよ ~無常と「もののあはれ」~
(2012/03/03 ブッダの言葉掲載)
「仏教の三宝印の一つ“諸行無常”。この“無常”は、とりわけ日本で発達した世界観である」――と語るのは、福島県で生まれ育った臨済宗住職であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏。国難を迎えた現代日本にあって、東日本大震災復興構想 […]
もう、理屈ではなく
(2012/03 いまこそ私は原発に反対します。掲載)
原発をどう思うのか。その問題に、理屈は要らなくなった。理屈ぬきに、駄目である。 まるで身内や恋人を徴兵で取られようとする女性のような物言いだと思われるかもしれない。「君、死にたまふことなかれ」与謝野晶子の文章にも、感 […]
福島・三春町だより 風化
(2012/02 NHKカルチャーメンバーズ倶楽部(NHK文化センター機関誌)掲載)
世の中にはじつにさまざまな「風化」がある。長年の風雪で崖がなだらかになり、川の石が丸みをおび、あるいは作りたての仏像が数百年経って味わい深くなったりする。それによって我々の祖先たちは、「わび」や「さび」などの新たな美意 […]
日曜論壇 第44回 ダルマの一文字
(2012/01/15 福島民報掲載)
巨大なダルマの腹にその年の希望の一字を入れる行事も今年で3年目になる。 京都・清水寺の貫主さまが一年を振り返って揮毫(きごう)されるのに対し、こちらは新年の希望を込める。もともと「正月」とは禅寺の「修正会(しゅしょう […]
短期集中連載 放射能と暮らす3 蜘蛛の中の銀
(2011/12/18 新潮45掲載)
三月十一日からちょうど八ヵ月が経過した十一月十一日、主に福島大学を会場にして「ふくしま会議」が開かれた。 十一日には全体会があり、十二日には「若もの会議」の他、四つのテーマによる分科会が開かれた。「いのち:子供の今、 […]
鉢の木
(2010/12/10 文藝春秋掲載)
八十五歳の父は、もう一年半あまり入院生活を続けている。三度目の脳梗塞を起こし、右半身がきっちり喉まで利かなくなってしまった。 喉が半分利かないということは、食べたものがいつ気管に入ってもおかしくない。健康人でも、誰も […]
「新しい感性」を待ちながら
(2011/11/30 Kototoi 第1号掲載)
三月十一日の東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故は、さまざまな意味でこの日本社会に変化をもたらし、そして更なる変化を促しているような気がする。 まず誰もが感じたであろう大きな変化は、この国が火山列島であることを […]
特集「この国で死ぬということ」 スペシャルエッセイ「死を想う」 死がまとう生の衣装
(2010/11/27 文藝春秋SPECIAL 2011年季刊冬号掲載)
私はこれまで、「死の周辺」と解説されるような、さまざまな小説を書いてきた。死にゆくプロセスの恍惚に思いをいたして『水の舳先』(新潮文庫)を書き、死そのものの在り方を『アミターバ』(新潮文庫)で追い求め、また死後の「中陰 […]